「想い」という表現が日本中に溢れている。よく注意してみるととりわけテレビ番組で多く使われていることに気づかされる。日本人の「想い」は募るばかりで、「想い」を聞かない日はないと言っても過言ではない。
「想い」だけではどうにもならない
この「想い」、いつ頃から多用されるようになったのかは定かではないが、おそらく東日本大震災の発生以降のことではないだろうか。震災で亡くなった方への「想い」が多くの番組で語られた。大切な家族を失い悲嘆にくれる人々の姿に日本中の人々が心を痛めた。まことにお気の毒でかける言葉もみつからない。そんな気持ちが「想い」という表現に集約されていったのかもしれない。
ところがこの「想い」という単語、その後メディアのみならず社会で広く、都合よく使われるようになった。まずは被災地の人々が復興に向けて立ち上がろうとする姿を「復興への想い」と表現するようになった。地震や津波によって破壊されてしまった街を立て直すのは並大抵のことではない。国や自治体が住民たちと話し合いながらグランドデザインを描き、予算をつけ、スケジュールに則って粛々とすすめていかなくてはならない。なんでも元通りにはならないのが復興だ。また、ただ「元通り」にすることが復興ともいえないだろう。何が必要で何をあきらめなければならないのか、何を新たに加えるべきなのかを冷静に分析し、実行に移していくためには真剣な議論が必要だ。「想い」だけではどうにもならないのだ。
「心」で考えるより「頭」で
「想い」は「思い」とも表現される。その違いは曖昧だが、辞書等の説明によれば、「思い」は「頭の中で考えること」であり、「想い」は「心の中で考える」ことだという。たしかに「想い」は文学や芸術の世界でよく使われる表現だ。「恋人への想い」「故郷への想い」などが典型的な使われ方だ。こうして考えてみると、震災で亡くなった方への「想い」は置かれている状況にとてもマッチする。ところが復興事業を考えるにあたってはまずは「頭の中で思う」ことから始まる。そしてその「思い」は思うだけではだめで実際に「行動」「実現」をしなくてはならない。それを「想い」と表現するのは「思い違い」というものだ。