なんだかわけがわからなくなってくる
「想い」は最近ではどんどん拡大使用されている。高校球児の甲子園への「想い」、社長の会社への「想い」、ラーメン屋を開業した店主のラーメンへの「想い」、校長の生徒への「想い」、就活生の就職への「想い」、なんだかわけがわからなくなってくる。
高校球児は甲子園という大いなる目標を掲げてその目標に向けて猛烈な練習をする、そして相手を打ち負かしていくことではじめて甲子園への切符を手に入れることができる。「想い」だけで勝てるほど勝負の世界は甘くない。「想い」よりも「作戦」や「戦略」を練ることに注力してほしい。社長は「会社への想い」を語っている場合じゃない。企業はちょっと手綱を緩めればライバルとの競争に敗れ衰退する。責任をとるのは社長だ。「想い」を語るのはよっぽどの大企業か、会社を引退したOBたちだけのはずだ。社員が社長に語って欲しいのは「理念」であり「ビジョン」のはずだ。ラーメン屋なんて星の数ほどある。自分の作るラーメンに誇りを持つのは良いが、「想い」よりも「こだわり」を持ってほしいものだ。校長はぜひ生徒を「想う」だけではなくしっかりと「教育」してほしい。就活生の「就職への想い」に至ってはほとんどどうでもよいことだ。会社は「想い」ばかりを語る君たちには正直飽き飽きしている。なぜなら就活コンサルから教わった同じ「想い」ばかりを語られても採用する側にとっては何の判断材料にもならないからだ。「熱意」は持つべきだが、入社後にどのように会社に貢献できるかを語る学生のほうがずっと魅力的だ。
自分たちだけの小さな世界に閉じこもっている
ではどうしてこの「想い」が世の中じゅうにはびこるようになってしまったのだろうか。誤解を恐れずにいえば、多くの分野で「成長の余地」がなくなってしまった日本人の現在置かれている状況が、こうした「野心に蓋をする」ような曖昧な表現を多用させているのではないだろうか。「もういいや」、「このままでよい」というのは現状を決して「よし」とは思っていないがもはや「どうしようもない」「がんばったってしょうがない」ということを意味している。それを「想い」という曖昧な表現でとりあえず受け流し、自分たちだけの小さな世界に閉じこもっているのだ。