1日に700近い便が離着陸し、10万人超が利用する国内最大級の国際空港「成田空港」。1978年の開港に当たっては、反対派を警戒して1万人超の警備隊を配置していたにもかかわらず、わずか20人ほどの活動家集団たちが管制塔を占拠する事件が起きていた。地上も市街戦さながらの混乱で、3月末に予定していた開港は5月まで延期することとなった。

 前代未聞の事件はどのようにして起きたのか。朝日新聞の大和田武士記者による書籍『成田空港秘話 三里塚闘争から「第2の開港」まで』(朝日新聞出版)から一部抜粋し、当時の様子をお届けする。

開港時に「事件」が起きていた成田空港 ©cap10hk/イメージマート

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破壊された管制塔には、「建設反対派」の旗がはためき……

 開港の2カ月前、世界に衝撃を与える事件が起きた。もともとの開港予定日を4日後に控えた1978年3月26日、空港反対を訴える活動家が管制塔を占拠したのだ。

 破壊された管制室には旗が翻り、ヘルメットの活動家たちが気勢をあげた。屋上へ逃げた管制官たちの頭上に報道ヘリコプターが飛び交う……。国の威信をかけて約1万4000人を動員した警備陣の「敗北」だった。

 事件の直後、当時首相だった福田赳夫は「残念だ」と語り、悔しさをにじませた。この事件のため開港は5月末にずれ込んだ。事件から数十年。刑期を終えて社会復帰した元活動家や、屋上に脱出した元管制官(65)らが当時を語り始めた。

 2007年11月、東京都内の出版社の一室に、事件を計画・指導した和多田粂夫(66)、行動隊長だった前田道彦(55)、前田と管制塔に侵入した中川憲一(60)の3人が集まり、朝日新聞の取材に応じた。

成田空港ができる以前の一帯。政府が1966年に空港建設を閣議決定すると、地元農家たちは「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成した(書籍より、以下同)

「逮捕されると覚悟していた。それでもやるしかなかった」

 事件前日の夜、前田ら襲撃部隊22人がサーチライトをかいくぐり、空港外のマンホールから排水溝に侵入した。排水溝は管制塔の近くまでつながっていた。

 前田が排水溝に降りた直後、頭上でドスン、ドスンと足音が響き、「たいほー」と叫ぶ声が聞こえた。地上の仲間が機動隊に取り押さえられた。マンホールのふたを閉めながら、前田は「失敗した」と思った。中川も「こんな狭く暗いところで戦闘になり、火炎瓶を投げたら、みんな死んでしまうのはないか」と不安を感じた。

 機動隊の追跡に備えて50メートルごとに見張り役を置いた。前田は「中止も考え、実は他に脱出口があるか探したんだ。しかし管制塔近くのほかに見つからなかった。なぜか警察も来なかった」。警備陣は管制塔占拠を未然に防ぐ機会を逃した。

 翌朝になって、前田は仲間に「作戦決行」を告げた。中川は「逮捕されると覚悟していた。それでもやるしかなかったんだ」と振り返った。「成田空港建設。それは農民が国家に強制的に土地をむしり取られるという、子供でも分かるおかしな話だった」。前田は、そう語った。