「開けろ、ひきょう者!」活動家たちは火炎瓶を投げつけ……
一方、元管制官は事件当日の午前中、家族とともに千葉市内の教会にいた。キリスト教の復活祭の日だった。
その後、午後からの勤務のため、車で国道51号を成田にむかった。「開港への準備が山積していて、定時よりも早くタワーに上った」。それが運命の分かれ道だった。
前田ら十数人は、1人がようやく通り抜けられるような場所を何カ所も抜け、出口にたどりついた。フェンスを焼き切るために用意していたガスカッターは、重すぎて途中で捨てた。
午後1時すぎ。ヘルメットをかぶり、鉄パイプや火炎瓶で武装した活動家たちが狭い出口から次々と外に出た。目の前には高さ約60メートルの管制塔がそびえ立っていた。
管制塔の16階では、5人の管制官が通常通り勤務していた。彼らにとって「悪夢」となった数時間が始まった。
管制塔占拠事件を起こした襲撃部隊の行動隊長前田道彦らは1978年3月26日午後1時すぎ、マンホールから管制塔までの約100メートルを全力で走った。その時、管制塔の16階にいた管制官たちは異様な光景をみていた。
空港に近い、成田市取香の取香橋付近で火の手が上がった。現場にいた元管制官は「予兆というか、胸騒ぎみたいなものがあった」。管制塔にたどり着いた襲撃部隊の1人、中川憲一は「入り口の扉が開いていてエレベーターに飛び乗った」。そのまま14階まで上がることができた。だが、管制室は、電子ロックされた扉で閉ざされていた。
一方、元管制官は、階段を駆け上がってくるドタドタという靴音が管制室内に響いたのを覚えている。「開けろー。ひきょう者ー」と怒号も聞こえてきた。「侵入されたんだ」とぼうぜんと思った。同僚と一緒に、イスや机などを入り口に投げ、臨時のバリケードをつくった。
しばらくして、室内に煙が立ちこめた。扉の外で襲撃部隊が火炎瓶を投げたのだ。
「目も開けていられなかった」と元管制官。炎は見えなかったが、なんとか消火しようと、室内にあった消火栓に手を伸ばした。幾重にも折られたホースを伸ばし、栓を開いた。だが、出てきたのは、赤さびた水だけだった。
その頃、前田たち襲撃部隊は、管制塔外壁のパラボラアンテナについていたはしごを上り、管制室に迫っていた。
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