『朽ちて死ぬ自由 僕の老い方研究』(村瀨孝生 著)

  タイトルに少し怖じ気づく。介護に38年間従事する著者は身ひとつで「爺捨て山」を開拓中。サブタイトルにある「老い方研究」の実験場としてだ。願いは、野垂れ死にして生き物たちに分解され土に還ること。

 私は終末期を医療の管理の下で過ごしたい。死に至るまでの痛みや苦しみを回避したく、緩和ケアを受けられるように。著者を山へと駆り立てるものを共有できるかどうか、不安なまま読み始める。案に相違して、のびやかで明るい思索が、そこには展開されていた。

 手動式の道具で蔓草や木々と格闘する時間は体との対話だ。機械ならば失われる過程にさまざまな感覚が発動する。介護中の母や仕事で接する高齢者たちの言葉や姿が折々に現れシンクロする。山に満ちる生き物たちの声や影のように。

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 介護する人は誰もが困惑するだろうトイレのタイミング。行くかと尋ねても行かないのに、そのすぐ後ベッドで排泄する。著者は気づく。トイレに行くかとは少し先の未来についての問いで、母には答えられない。母のいるのは「いま、ここ」のさまざまな感覚が押し寄せる世界。日差しの揺らぎ、電気毛布の温み、エアマットの空気音、そして今まさに溢れ出る尿。著者は考える。現代社会に生きる自分たちは、その対極にあると。過去に原因を探し未来を予測することにいっぱいで「いま、ここ」を感じる暇がない。

 あのように老いたいと著者に思わせるのはおおかた、ぼけのある人だという。穏やかでものわかりがいいわけではない。むしろ逆で介護する人を振り回す。介護者は付き添いの必要を感じるが、彼らは付き添いを求めていない。その先に起こり得る危険や不都合への頓着はないのだ。「人間の内なる自然である老いに沿えばよいと、お年寄りたちは教えてくれる」。

 終わり近くで著者は「老い方研究」の結論を示す。お迎えを待つ期間を、生まれて間もない頃と同じく非言語期とすれば、主体は体で「いま、ここ」を生きている。言語期の主体は概念にもとづく意識で、時間は過去から現在、未来へ一方向に流れるものとされ、そのベクトルに乗って社会は成り立つ。非言語期は野性、直感的で、禅の言う無分別智、言語期は理性、科学的、分別智にあたる。この整理の仕方は深く頷ける。

「爺捨て山」は非言語期への移行を助ける場となる予定だと著者。その一文に出合って私は、著者を山へと向かわせるものが腑に落ちた。過去から未来への時間概念は、記憶を保てずベクトルに沿い行動を配置できない認知症患者を閉め出しがちだ。流れに乗れずにいるのは高齢者と限らない。そのベクトルが多くの人の心の病につながっていることを著者は指摘する。著者の問題意識は「老い方」を超える広がりを持つ。

 還暦を迎えた著者の加齢も開拓も現在進行形。続く研究報告が待たれる。

むらせたかお/1964年生まれ、福岡県出身。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。96年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書に『看取りケアの作法』『シンクロと自由』など。

きしもとようこ/1961年、神奈川県生まれ。エッセイスト。『俳句 五七五の幸福論』『おひとりシニア、1年生』など著書多数。

朽ちて死ぬ自由 僕の老い方研究

村瀨孝生

ミシマ社

2026年4月15日 発売