違う誰かになることで得るささやかな快感
ぼくは、芸人としての自分に対して後悔していることがある。
それは、芸名を付けなかったことだ。
別の名前が欲しかった。
若林正恭という本名の名残もないほどにかけ離れた芸名“X”を名乗っていれば、テレビでの発言もその“X” のコメントとしてよりハッキリと分人化できたのではないか、と。
収録中の発言は大胆になり、収録後のストレスは今よりは軽減されたものだったのではないかと想像される。
収録後、七三分けをシャンプーで落とし、ピンクベストを脱いでいる相方を見ていると「こいつは“X”としてテレビに出演しているから、こんなに呑気なのではないか」と疑いたくなる時がある。
そんな自分も、帰りのタクシーでドライバーに職業を聞かれた時、ふと「雑誌の編集者なんですよ」と嘘をついてみることがある。
住んでいる場所を知られたくないということもあるけど、違う誰かになることでささやかな快感を得るのは、ぼくも城戸と一緒なのかもしれない。
中年になると、どの分人にも疲れてしまうことがあるのだ。
自分を構成する要素。それには“おもいで”以外にも、自分のコントロールが利かない出自や環境の要素もある。
それによって苦しめられている「ある男」が、作中に登場する。
本人の気持ちなど想像することもなく、出自や環境で他者を“こうだ”と不当に決めつける差別。
それを受けている人の心情を、「ある男」を読むことによってより強く想像することができた。
差別を受けることによって苦しめられ、自分を構成する全ての分人を愛せなくなった人は、泣きながら公園の地面に頬を擦り付けるしかないのだろうか。
その描写を目で追っている時、胸が痛くて仕方がなかった。
《愛にとって、過去とは何だろうか》
今のご時世、スペックなんていう言葉で他人を査定することも当たり前のようになっている。
「他者を愛している」と自分が宣言する時、その他者の“どこ”を愛しているのだろうか。その“どこ”に対する答えを「ある男」を読み終わった後、暗がりに手を伸ばしてかき回すように、ぼくはずっと探っていた。
分人主義の中で、“真心”という概念が成立するかどうかは分からない。だけど、愛するなら、愛されるなら、“真心”であればいいなと願ってしまった。