『預言者の歌』(ポール・リンチ 著/栩木伸明 訳)

 ディストピア小説の新たな傑作だ。

 近未来。全体主義国家の色合いが強くなる中、反対派に対する抑圧が始まり、主人公・エイリッシュもすぐにその影響を受け始める。夫は、デモに参加して勾留され、行方不明に。物資も欠乏、やがて政府軍と反乱軍の内戦状態に突入する。

 そんな不穏な状況の中、エイリッシュは身の振り方に苦悩する。

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 カナダに移住している妹から、「脱出してこないか」という誘いがあり、決断さえすればそれが可能な状態だったのだが、夫が帰って来る時のことを考えて、家を離れられない。

 自由に動けない子どもたちは不満を募らせ、高齢の父親もケアしなければならず、エイリッシュは瞬く間に物理的・精神的に追い詰められていく。最終的に彼女が下した決断は――。

 読んでいくうちに、次第に空気が薄くなるような息苦しさを感じるようになる。日常が簡単に崩壊し、変容していく様が、奇妙にリアル、かつ圧巻だ。

 ディストピアの描き方は様々だろうが、本書は徹底して一人の女性の視点で語るスタイルを取っている。それ故か、平穏だった生活が侵されていく様が、ひどく身近に、個人的な経験のようにさえ思える。

 内容もさることながら、その衝撃・抑圧感を伝える文体も独特だ。段落が長い。そして「 」がなく、会話文も地の文に溶けこまされている。その結果、文章全体が異様な塊感を持ち、壁が動いて迫ってくるような圧力を感じるのだ。圧が強い文章というのはあるものだが、これほど強烈なのは滅多にない。その結果、我々もページをめくる度に追いこまれていく感覚を抱くようになる。正直、読後には不安感、不快感しかなかった。

 歴史上何度も姿を現した全体主義は、決して過去の遺物とは言えないだろう。全体主義に対する欲求を抱き、実現する力を持ってしまう人間、またそれを支持する層がまた現れる可能性はある。21世紀前半の今、大国の強権主義が台頭する状況で、これからの政治体制、世界がどう変わるか、全体主義が台頭するのではないかと心配になることもある。

 そういう今だからこそ、本書を読んでよかった。後に残った不安感、不快感の源泉が何なのか、考える機会も得た。考え続けることで、もしも本当に全体主義が台頭してきた時に、「ノー」と言えるのではないだろうか。逆に言えば、何も考えなくなった時、人は降ってくる環境を、ただ受け入れるしかなくなる。

 これから20年後、30年後にも、この小説は読まれるだろう。未来の読者は、「よくできたディストピア小説だ」と純粋に褒めるだろうか。あるいは「まさに予言の書だった」と溜息をつくだろうか。

 どちらに転ぶかは、私たち自身にかかっている。

Paul Lynch/1977年アイルランド生まれ。2013年作家デビュー。長編第5作にあたる本作は、23年にイギリス最高峰の文学賞ブッカー賞を受賞。ほかにアメリカのデイトン文学平和賞、フランス書店員賞を受賞。現在は40以上の言語に訳されている。

どうばしゅんいち/1963年生まれ。ミステリを中心に人気シリーズ多数。最新刊は、デビュー25周年記念作の『鋼鉄のレガシー』。

預言者の歌 (ハヤカワ・プラス)

ポール・リンチ ,栩木 伸明

早川書房

2026年5月1日 発売