「場の空気を読み取りながら展示をつくり上げていった」
展示準備のために原美術館へやってきたとき、彼が持参したのはいくつかの小さいペインティングと、頭の中で膨らませつつあったイメージのみ。現場に幾日も通い詰め、場の空気を読み取りながら具体的な展示をつくり上げていった。
「館内や庭を歩き回って、自由に過ごしました。ここはカーテンの開き具合が少し変わるだけでも、室内の光の具合や雰囲気が大きく変化する。私が見出したそうしたおもしろさを、来館するほかの人たちにもぜひ知ってもらおうと考えて、場をつくっていきました。
スーツケースに入れて持ってきた私のお気に入りのペインティングも、すぐ『この壁に掛けてみたい』という場所が見つかりましたよ。絵を掛けてみて、そこからインスピレーションを働かせようと思っていて、幸いその試みはうまくいきました」
彼の頭の中で膨らんでいったイメージを、歴史ある建造物の内部で具体的なかたちにしたものが、いま原美術館で目にすることのできる展示ということになる。ささやかな映像作品や絵画がそこかしこに配されてはいるけれど、それらを一つひとつ凝視するというよりは、映像や絵画も含めた部屋全体の様子に意識が持っていかれる。窓から入る光が繊細だな、建物の角で影ができていてそのかたちがおもしろいな、などと。
何を見て心が動かされたり満たされているのかはよくわからぬものの、そこがたいへん居心地のいいことだけは疑い得ない。ぼんやりとした意識の中で、せっかく個展に来たのだからリー・キットの作品をもっとしっかり見なくていいのか? 彼のペインティングや映像の良し悪しは吟味しなくてもいい? という思いも浮かぶが、そんなジャッジをする必要なんてきっとないんだろう。
なにしろ彼はここでインスタレーションをつくり上げているのだから。インスタレーションとは、その場の全体を作品にするものだと先に述べた。快い空間にどっぷりと身を浸す体験ができているのであれば、それがリー・キットの作品を余すところなく味わっている状態であり、彼の術中にまんまと嵌められているとも言えるのだ。