そういうものを「読書」とみなすのはちょっと……と思うとき、私たちは本を読むことがそもそも主観的な経験であり、身体を使った行為でもあり、ほかのだれともまったくかかわらないかたちでは、そもそも本を読むことができないということを忘れている。

写真はイメージ ©milatas/イメージマート

これまで否定されてきた読書も肯定する

 ここまで読書観を整理し、さまざまな読書のあり方、広がりを紹介してきた。

 これらをふまえて私が提案したいことをまとめると以下になる。

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・いろいろなかたちのReadingを肯定する
・他者(とくに子こども)の全時間、全人生に口を出すような態度はやめる
・実利的な読書を肯定する
・欲求や欲望からする読書も肯定する
・(時には人に言いえないような) 娯楽的な読書、楽しみのための読書も肯定する
・自由読書を肯定する
・「みんなで読む」を肯定する
・記述的な読書(読者) 観を追求する
・読書を通じて起こる泣な ける、エモい、怒い かり、笑いといった情動・感情の動きを肯定する
・生活実感にもとづいた読み方、感じ方を肯定する
・ 書店や図書館を「知の拠点」などと呼んで「知」にかかわるもの以外がそこにないかのようなまちがった呼称をやめる
・五感を使った体験的、参加型の読書、本にかかわるイベントを楽しむ
・BookTokなどのポストクリティーク的な実践を肯定する
・あるがままの読書を肯定する

 もちろん、教育の場ではこれら「だけ」というわけにはいかない。それは今後も変わらない。規範的な読書(観)は、能力の獲得・育成のためには必要だ。批判的に読み解く力も不可欠である。

 ただ、生きていくうえでは従来型の読書、これまでネガティブに評価されてきた読書実践とを、時と場合によってうまく使い分ける、あるいは組み合わせて使えるようにしていくことが大切になる。また、各学問や各文学ジャンル、業界ごとの歴史 、価値観をふまえた営え い為い をつづけていくためにも「これはいい、これはよくない」という線引き、コミュニティの内と外を分ける基準は必要だし、なくなるはずもない。

 ただ、そこからこぼれるものもあっていいし、現にある。むしろ規範的な読書(観)ではとらえられない世界のほうが実際には大きい。この点は認めてほしい。

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