セックスをすることで、男性から、たとえ一瞬であっても「かわいい」と言われたり、お金をもらったりできる。自分にも価値があるのだと思える貴重な経験なのだ。虐待的家族で育った女性たちが、10代半ばから複数の男性との性行為を繰り返し、時には同棲したり、性産業で働くようになることの背景には、彼女たちのトラウマがあるのではないか。(40-41頁)
次なる10年のケアのあり方を探る信田さよ子『溺れながら生きる』
依存とは生存戦略である。あまりにも戦略の立て方が独特で、社会の標準から逸脱した場合には「病気・障害」のレッテルが貼られるが、それは貼りつける側が多数派であることを示すにすぎず、「健康」であることを保証してはいない。
職場での仕事に「依存」することで、家庭を顧みず空っぽにした父親や、子どものキャリアを上昇させることに「依存」して、いつしか教育虐待に陥った母親を見ればいい。彼らはかつて、この国の戦後社会の主流派だった。だがそのあり方を健康だと思うのは、いまはもうよほどナイーブな人しかいない。
『みいちゃんと山田さん』にせよ後半は、主題が弱者を庇護することで得られる優越感に「依存」する、一見すると病気でない人が抱える闇へと移る。彼らはそれなりに優秀で、社会に適応しているのかもしれない。だがそんな社会の全体こそが、パターナリズムの病を再生産していたら、どうだろう。
平成の晩期に始まる、ここ10年間のダイバーシティ(多様性)の風潮は、そうした昭和以来のマジョリティへの異議申し立てだった。ところがそれは健康を測る基準の自明性を疑わないまま、溺れていないように見えたマイノリティの「上澄み」だけをちやほやし続けて、令和にはすっかり信用を失ってしまった。
世の中をうまく泳いでいることを根拠に、病気があっても「この人は健康だ」と言い張るのは、多様性でもなんでもない。むしろ健康とされる側もまた、なにがしかの「病気」を抱えていると自覚するとき、はじめて多様な生き方を認める社会が生まれる。
誰しも幼少期から人生を振り返れば、なぜあんなムキになってハマったのだろうと思い出す体験を持っている。そのドアを開けて次なる10年のケアのあり方を探す、「ホモ・ディペンダンス」(依存する人間)のための原論である。
トラウマに満ちた世界・トラウマまみれの人生を生きるには、依存は不可欠なのであり、依存することは、広い意味でのトラウマケアなのだ。依存から依存症への距離は質的ではなく、量的なものに過ぎない。病気かどうかは、明確な一線が引かれているわけではない。(130-131頁)