「ゲルカヤノ」「ニンバス」といったいくつもの人気シューズを展開してきたアシックス。直近では新宿にフラッグシップストア「ASICS FLAGSHIP SHINJUKU」もオープンした。

 そんなアシックスは1951年、前身であるオニツカ時代に「タイガー」と名付けたバスケットボールシューズを生み出した。現在まで続く「オニツカタイガー」の源流ともいえる商品の舞台裏を、財部誠一氏の新著『敗れてもまた走れ アシックス創業者 鬼塚喜八郎の情熱「オニツカタイガー」を創った「靴の鬼才」はなぜ世界と戦い続けたか』(NewsPicksパブリッシング)から一部抜粋してお届けする。

“初代オニツカタイガー”は、前身のオニツカ時代に生まれた(写真提供:ASICS)

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 1891年にアメリカのマサチューセッツ州で生まれたバスケットボールが日本に伝わったのは、1908(明治41)年である。この年、アメリカのYMCA(キリスト教青年会)で学んだ大森平蔵が、東京YMCAでバスケットボールの指導を始めたものの、戦前はそれほど一般的なスポーツではなかった。いまでこそ、バスケットボールは体育館で行なわれる競技だが、当時のフィールドは土のグラウンドだった。1920年代に使われていたバスケットボールシューズの黒いゴム底には、土の跡がくっきり残っている。

 当時から戦後に至るまで、バスケットボールシューズは日本製だったが、見た目はアメリカのコンバース社製のものとそっくりで、ロゴマークやアッパーの雰囲気を真似ただけのまがいものだった。つまり、ズック靴のアッパーをくるぶしまで届くハイカットにしただけで、機能性がまったくなかったのだ。体育館の板張りの床の上でキュッキュッと独特の響きを放つ本格的なバスケットボールシューズは、当時の日本には存在しなかった。

 喜八郎は、そこに狙いを定めた。

〈誰もやっていないことをやる。どんなによいものをつくっても、物真似はやるだけムダだ〉

 喜八郎は、経済学もマーケティング理論も知らなかったが、軍隊生活のなかで「戦い方」を徹底的に学んでいた。徴兵を免除されていた大学生が「学徒出陣」で徴兵されたとき、学徒兵への教官代理も務めた理論派だったが、しかし、バスケットボールシューズをつくるとは決めたものの、それが具体的にどんなものになるのかの見当は、皆目、ついていなかった。