「こんなデタラメなシューズがあるか!」

 じつはスポーツシューズをつくると決めたとき、喜八郎は西井商事に勤めていた際に知遇を得た神戸高校の教師、松本幸雄に相談した。いまでも神戸高校は兵庫県を代表する進学校だが、バスケットボール部も1925(大正14)年設立の強豪で、当時からすでに体育館で本格的な練習を行なっていた。指導者の任にあった松本は兵庫県バスケットボール協会の理事長を務め、全国的にも名の知れた人物だった。喜八郎に「どんなシューズをつくったらよいか」と問われた松本は、当然のように答えた。

「バスケットボールシューズはどうだ」

 先に述べたように、当時の日本にはまともなバスケットボールシューズが存在していなかった。靴の街である長田でも小さな町工場一社が細々と生産しているだけで、松本を納得させる品質には遠く及ばなかった。

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 そう返されて、ここに光明あり、と喜八郎は直感したが、「いちばん難しいスポーツシューズ」をおいそれとつくれるなら、苦労はない。いの一番に矢仲ゴム工業所の矢仲社長に話してみたが、「無理だ」と首を縦に振ってくれなかった。

「バスケットボールシューズは難しすぎる」

1950年に発売した第1号のバスケットボールシューズ(写真提供:ASICS)

 長田でバスケットボールシューズの製造業者が1社しかなかった理由は、市場がまだ小さいこともあったが、製造の難しさが何よりの理由だった。ならば、と次に、喜八郎は堀から紹介を受けた別の会社を訪ねた。長田に生産拠点を置く吉川ゴム工業所である。事の次第をじっくりと聞いた社長の吉川は、男気を見せてくれた。

「うちでつくってあげよう」

 早速、見よう見まねでバスケットボールシューズづくりが始まった。吉川ゴム工業所も品質のよいズック靴メーカーだったが、そもそも未知の製品づくりだから、工場頼みというわけにもいかない。アイデアを出して現場の職人たちの意見を聞きながら、手探りで試作品づくりを始めたのだ。

 紆余曲折を経て、ようやく試作品らしきものができたところで、その出来栄えを喜八郎は神戸高校の松本に見てもらった。携えたシューズを松本に手渡すと、形相が一変した。

「こんなデタラメなシューズがあるか」

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