古代天皇に関する最大の謎、継体天皇とは何者だったのか――。歴史学者の水谷千秋氏の著書『増補決定版 謎の大王継体天皇』では、古代の文献だけでなく、考古学の成果や地勢的な視点から、その実像にせまった。継体天皇にかかわる福井県や京都府の史跡・古墳から見えてきた継体天皇の謎に包まれた生涯とは。著書から一部抜粋してお届けする。
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越前三国から樟葉宮へ
夫、彦主人王の死後、ひとり婚家に残された振媛は、幼い王子を抱いて実家のある越前三国に帰ったという。以後、継体は越前で育てられたと『日本書紀』は伝える。
福井市の中心部に、標高100メートルほどの足羽山という小高い山がある。麓から15分ほどかけて散策気分で山頂まで登りきると、そこに足羽山公園がある。ここには古墳群もあるが、何といっても目をひくのはその中心にある継体天皇の大石像だ。継体天皇が越前三国で育ったと『日本書紀』にあるのにちなんで、この像は大正年間に建てられた。
越前三国の九頭竜川の氾濫を治めた、という当地の伝説に基づくそうである。歴史的にこれといった根拠のあるものではないのだが、写真にあるように何とも個性的な風貌をしている。杖をたずさえた老翁が、長い髭を生やし柔和に微笑んだ姿を仰いでいると、なんとなく継体天皇の実像もこうしたものだったように思えてくる。
『日本書紀』によると、継体は57歳の時、中央の諸豪族によって大王に擁立され、越前を出て、「樟葉宮(くずは)」(現在の大阪府枚方市)で即位したという。子どものなかった武烈(ぶれつ)天皇が崩じたあと、適当な王位継承者がいなくなったため、継体に白羽の矢が立った、とされる。西暦で言うと507年、今から1500年ほど前のことだ。
そして即位後5年目の冬10月に「山背筒城(やましろつつき)」(京都府京田辺市)に遷都し、さらに十二年春三月には「弟国(おとくに)」(京都府向日市・長岡京市)に遷都、20年秋9月になって大和国の「磐余玉穂宮(いわれたまほ)」(奈良県桜井市)に入ったと記されている。そしてその5年から7年後に崩じたから、かれは天皇としての歳月のほとんどを、大和盆地の外で過ごしたことになる。この点でも、継体という天皇は異例だ。享年について『日本書紀』は82歳とするのに対し、『古事記』は43歳とし、両書の開きは大きい。
真の継体陵・今城塚古墳
かれの亡骸が葬られていると推定されるのが、高槻市郊外の今城塚(いましろづか)古墳である。現在宮内庁が継体の陵墓に指定しているのは大阪府茨木市の太田茶臼山古墳だが、この古墳は五世紀中ごろに造られたもので、6世紀前半に亡くなった継体の墓にはふさわしくない。そこで現在では、太田茶臼山古墳から歩いて一時間ほどのところにある、今城塚古墳こそが真の継体陵であるといわれている。全長190メートル、6世紀前半としては最大級の前方後円墳である。
高槻市埋蔵文化財センター(現・高槻市立埋蔵文化財調査センター)の森田克行氏によると、内部には2ないし3個の石棺が葬られているらしい(その後、産地の異なる三種の石棺の欠片(かけら)が発見された)。中世になって城砦として改築されたために、墳丘の姿はかなり損なわれ、濠の一部は現在釣り堀として利用されている(旧版執筆当時)。現地に立ってみると、これが本当に古代の天皇陵なのか、という気さえしないでもない。宮内庁指定の陵墓とされなかったために、整備が進まなかったのが一因である。またここからは大型の家形埴輪と、これを護るようにして屹立する武人埴輪が発見されている(現在では今城塚古墳公園、今城塚古代歴史館が設けられ、「いましろ大王の杜」として整備されている)。これらは、今城塚古墳から1、2キロのところにある新池埴輪製作遺跡で焼かれたものと推定されている。この家形埴輪は、高さ1・7メートルもある日本最大級のものだ。私には、これが継体の豪華な居館を模したものと思えてならない。

