やがて安子が、信子の臨終の言葉を伝えた。「もうもう二度と女になんか生れはしない」。その言葉を聞いた蘆花は、このとき「小説だ」と心の中で叫んだという(徳冨愛子述・神崎清記「蘆花と共に」明治文學全集42『徳冨蘆花集』筑摩書房)。当時の蘆花は、兄・蘇峰が創設した民友社で芽の出ない一社員だった。同年11月29日、国民新聞で『不如帰』の連載が始まる。
ところが、実際の経緯は、小説とはかなり違う。信子と弥太郎が結婚したのは明治26年(1893年)4月、離縁はその2年ほどのちである。神崎清の調査によれば、縁談の際、大山家の主治医だった陸軍軍医・橋本綱常は病気などないと断言していた。ところが結婚後まもなく咳が続き、三島家側の高木兼寛が進行した肺結核と診断する。陸軍と海軍で見立てが食い違い、怒った巌が信子を引き取って三島家に返さなかった。もつれの根はそこにある(『座談会明治文学史』岩波書店)。
「意地悪な継母」に描かれたが…
蘆花はこうした事情をほとんど調べていない。中野好夫は、福家未亡人の話を聞いたあと素材を取材した形跡は見あたらないと指摘する(中野好夫著『蘆花徳富健次郎』筑摩書房)。小説の中で、浪子は姑と継母の二人に痛めつけられる。中野はこの造形を「善人帳」「悪人帳」の手口と呼んだ。姑のお慶は三島和歌子、継母の繁子は捨松。読者はすぐに現実の二人を重ねた。アメリカ帰りで英語を操る後妻という立場は、それだけで反感を集めやすかった。
だが、冷たい継母という役どころを負わされた捨松は、実際には日本の看護の草分けの一人である。日本初の女子留学生のひとりとしてアメリカに渡り、看護婦養成学校で訓練を受け、看護師の資格を得ている。明治17年(1884年)に鹿鳴館で開いたチャリティバザーの収益は、日本初の看護婦教育機関である有志共立東京病院看護婦教育所の設立資金になった。
義理の娘の看病中に、事故で早産
信子は幼いころから病気がちで、捨松はその看護を引き受けてきた。鹿鳴館時代が終わった明治20年(1887年)の暮れ、吸入器を使って看病していたところ、それが突然爆発する。ショックで妊娠中だった捨松は早産し、その子は2日後に死んだ(久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』中央公論社)。