若手時代の鉄板ネタは“あの人”のモノマネ
福浦のモノマネのエピソードとして野球以外の話題もよく耳にする。これは先輩選手たちから聞く話。それは「福山雅治さんのモノマネが上手かったことしか記憶にない」と言うことだ。幕張のレジェンドと言われる現在ではこの話はギャップを感じる。だが、証言は一人や二人ではなく当時を知るほとんどの先輩が言うのだから、間違いないのだろう。一応、恐る恐る本人に確認するとあっさりと認めた。
「キャンプのホテルで先輩の部屋に呼ばれて、『なにか面白い事をやってみろよ』と言われると、よく福山雅治さんの真似をしていたね。カラオケでも基本、福山雅治さん。最初にモノマネをしてから歌う。そのうちに先輩たちから『おい、いつものやってくれよ!』と言われるようになっていた」
同じ「福」から始まる名字ということもあり福浦イコール福山雅治の真似をする若手。当時の千葉ロッテマリーンズではそれが定着していたのだ。スワローズから移籍してきた内藤尚行氏(現野球解説者)も移籍してすぐに、若者の一発芸を目にした。
「ギャオス内藤」の異名で知られ、スワローズ時代に一世を風靡したキャラの立つベテランも大ウケとなった。その記憶は鮮明に残りその年のシーズンオフに内藤氏は知人のマスコミ関係者を通じて、福山雅治さんのラジオ番組の見学をセッティングしてくれたほど。当時の福浦は、先輩たちへのモノマネがキッカケで本人に面会する機会が実現することになるとは思ってもいなかったはずだ。
「福山さんは絶対に覚えていないよ。名も知らない若いプロ野球選手が見学に来て、『ファンです』と挨拶をさせてもらっただけだから。でも嬉しかったなあ」
いつか再び福山雅治のモノマネを……
そんな若者は投手から野手に転向。長い年月を経て、「幕張の安打製造機」と呼ばれるまでに成長した。01年には首位打者を獲得。01年から06年までは6年連続3割をマークし、パ・リーグを代表する選手になった。
そして苦節25年。ついに通算2000本安打の偉業を達成し名球会入りを決めたのだ。その根底にはたゆまぬ努力はもちろん、人よりも真似に対する鋭い感覚、感性を持ち合わせていたことも功を奏したように思える。よく言われることでもあるが、やはり人は真似から入るのは大事なのだ。
最近はさすがにモノマネを披露してくることはない。ただ、いつかぜひ見せてもらいたいと思っている。超一流打者たちの打撃フォームやトルネード投法も捨てがたいが、やはり見たいのは福山雅治の「こんばんは、福山雅治です」のフレーズから始まり、歌を歌い始めるという王道の流れだ。なお、これをお願いし実現に導けるのは現在の私の感覚だと難易度S。99%不可能だ。
梶原紀章(千葉ロッテマリーンズ広報)
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