刻一刻と迫るプレーボール。一体どんな気持ちで迎えればいいのだろうか。
10月6日午後6時。ホークスの今季レギュラーシーズン最後の本拠地試合の幕開けは、本多雄一にとって最後のプレーボールであることも意味している。
1日、午後5時30分。球団から番記者向けに一斉メールが届いた。表題は「本多雄一選手の引退について」。添付ファイルには事実を伝えるたった2行の短い文章と、記者会見の日時などが記されていた。
あの本多が、背番号46のユニフォームに別れを告げる。
期待値を急上昇させた入団会見での言葉
福岡県大野城市出身。フランチャイズ・スターだ。鹿児島実業高校から三菱重工名古屋を経て、‘05年大学・社会人ほかドラフト5位でホークスに入団した。2年目には二塁手のレギュラーを獲得。‘10年は59盗塁、‘11年には60盗塁で2年連続盗塁王のタイトルに輝いた。いずれのシーズンもフル出場を果たし、チームもまた2年連続でパ・リーグ優勝、‘11年は日本一にも輝いた。本多の活躍がそのままチームの順位に反映された。誰もが認めるホークスの核となるプレーヤーだった。
突然だが、僕は謝らないといけない。
ドラフトで本多がホークスに入団することが決まった時、「この選手、必要?」と思っていた。当時のホークス二塁手事情。助っ人のホルベルト・カブレラがシーズン序盤は守っていたが、守備力で勝る経験豊富な鳥越裕介と本間満が後半戦になると出場機会を増やしていた。確かに力のある若手が必要だったが、それならばファームで明石健志、金子圭輔(現球団広報)、稲嶺誉(現スカウト)あたりが着実に力をつけているではないか。特に明石は将来有望な若鷹として注目されていた。
同じ左打ちで俊足タイプの選手を獲る必要があるのだろうか、と思ったのだった。
ただ、12月に行われた入団発表を取材した時、僕の考え方の角度が少々変わった。本多は「僕のセールスポイントはバッティングです」と断言したのだ。
あれには驚いた。てっきり「守備や足」とのコメントが返ってくると勝手に思い込んでいたからだ。そのアピールが悪いと断罪するわけではないが、やはりある程度の打力がなければプロでレギュラーを張ることは出来ない。本多という選手が俊足で守備が上手いことは知っていた。だけど敢えてバットでも活躍できると自信を見せてきた。その心意気に期待値が急上昇したのを今でも覚えている。
先ほどドラフト5位と書いたが、あの年は「高校生ドラフト」と「大学・社会人ほかドラフト」と年に2度行われていた。ホークスは高校生も4名指名しており、実質順位はもっと低かったとも言える。しかし、本多の実力は早々に認められていた。1年目からオープン戦に出場。死球骨折で離脱を余儀なくされてしまったが、そのアクシデントがなければ開幕1軍は有力だった。同期で希望入団枠入団の松田宣浩は「僕より早く活躍し、負けたくないという思いでやっていた。ずっとライバルだと思ってやって来たし、切磋琢磨してきた」と話した。
プロ2年目にはレギュラーを獲得した。先述したとおり盗塁王に輝いたし、二塁手でゴールデン・グラブ賞に2度選ばれた。本多雄一、川﨑宗則の二遊間は、最高のコンビだった。
しかし、‘12年のシーズン序盤に首痛を発症。これが引退の引き金となった。