きょう10月3日は「アンパンマンの日」である。1988年のこの日、アニメ『それいけ!アンパンマン』の放送が日本テレビでスタートした。それからちょうど30年。また、原作者のやなせたかしが2013年に94歳で亡くなって、今月13日で5年が経とうとしている。

大人の評判は芳しくなく、子供には大ウケした絵本

原作者のやなせたかし。1973年に絵本『あんぱんまん』を書いたとき、50代半ばを迎えていた ©文藝春秋

 原作となる『あんぱんまん』(当初はひらがな表記だった)が初めて登場したのは、アニメ化の15年前の1973年。これはフレーベル館が幼稚園・保育園に直販していた月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一冊として刊行されたものだ(市販化は1976年)。当初は編集者や評論家など大人たちからの評判は芳しくなかったという。しかし、やがて幼児たちの支持を得て、その後、絵本はシリーズ化された。やなせと旧知の仲である作曲家のいずみたくの手でミュージカルにもなり、ここでアンパンマンの敵役としてばいきんまんが登場、さらにしょくぱんまん、カレーパンマンと仲間も続々と増えていく。ばいきんまんの「ハヒフヘホー」というおなじみの笑い声も、このミュージカルから生まれ、子供たちに大ウケだったという(※1)。

 子供人気に目をつけて、テレビ各局やアニメの制作会社は『アンパンマン』のアニメ化を企画した。しかし、どういうわけか、どこも最終段階で立ち消えとなった。そのなかで1985年、やなせは、東京ムービー新社(現トムス・エンタテインメント)と日本テレビからほぼ同時にアニメ化の申し出を受ける。日本テレビ内でも反対が強く話はなかなか進まなかったが、プロデューサーの武井英彦は屈せず、何度も企画を提出したという(※2)。

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「1年は続けたいですね」期待薄だったアニメ化

当初の絵本では『あんぱんまん』とひらがな表記で、目や鼻のバランスも今と少し違った

 結局、3年がかりで企画は通ったものの、局側にはスポンサーなしで自費制作するよう言われた。新番組のスタート時には恒例だったイベントも、ちょうど昭和天皇の容態が悪い時期だったため自粛。放送開始までに何とか玩具メーカーなどがスポンサーについたものの、当初は関東4局のみの放送、それも月曜の夕方5時と、ほとんどの局が再放送をやっている時間帯で始まった。やなせは、武井から《この時間帯の最高視聴率が2%なんで、3%いったらお祝いしましょう》と言われ(※3)、制作にあたる東京ムービー新社のプロデューサーの柳内一彦には《一応ツークール、6ヵ月で出発しますが、1年は続けたいですね》と言われたとか(※2)。

「じゃあ、俺がスポンサーやる!」やなせの熱意

 しかしふたを開けてみれば、視聴率は予想を上回る7%を記録、時には10%を超えた。翌89年3月には文化庁のテレビ優秀映画に選ばれ、奨励金600万円が贈られる。ここにいたって局の幹部も認めざるをえなかったという。すぐに放送は全国に広がった。ただし、やなせの故郷の高知県ではなかなかネットされなかった。そこで彼が一肌脱ぐ。

《放送局の人に「僕の郷里でやってないのはおかしいんじゃないか」と言ったら、「どうもスポンサーが付きませんで……」って。「じゃあ、俺がスポンサーやってやる!」ってしばらくスポンサーやってたんです》(※3)

 地域限定とはいえ、原作者自らアニメ番組のスポンサーとなったケースは珍しいだろう。