『夏帆 The Tale of KAHO』(村上春樹 著)

 26歳の絵本作家・夏帆(かほ)はブラインド・デートをした男(佐原)から「君みたいな醜い相手は初めてだよ」と言われる。勿論、夏帆は驚き立腹するが、一方で「この男はいったい何を私に告げようとしているのだろう?」との好奇心も抱く。

「私は母のことがそれほど好きではないかもしれない」。そんな心の檻に留まっている夏帆を佐原の暴言と彼が乗るモーターサイクルの排気音が揺り動かす。その音を避けるように、夢に現れたありくいの提案で夏帆は東京・足立区花畑(はなはた)から武蔵境に引っ越すのだ。

 この足立区花畑、武蔵境、夏帆の実家がある浦和は、古代は武蔵国(むさしのくに)だった。叔父がいる新小岩も江戸期に武蔵国へ編入。夏帆の担当編集者の町田も地名では武蔵国。村上春樹は武蔵国の国分寺があった地にジャズ喫茶を開いている。「かほ」は「顔」の古語だし「花畑(はなばたけ)」の意味もある。佐原のモーターサイクルについて「牛車に乗っていようが」どうでもいいなどと夏帆は思っている。人も動物も植物も一緒に生きていた武蔵国を巡る物語ではないだろうか。

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 そして武蔵境は武蔵国の境界の地という意味なのだろう。その武蔵境に移動した夏帆は、現実と非現実の境界を踏み越えてしまう。

 ブラジルからきたありくいと親しくなり、邪悪なジャガーのことを知り、さらに狡猾なシロアリの女王が夏帆の母親の身心を乗っ取り、どんどん母を変化させていることを知る。そんな母の姿に夏帆は耐えられない。ありくいとの付き合いから闘う勇気を得た夏帆は浦和の実家に行き、シロアリの女王と対決するのだ。

 だが夏帆は夢の中でシロアリの女王から絞殺されそうになる。そこに佐原のモーターサイクルの排気音が聞こえてくる。その音で意識を取り戻した夏帆は「お願い、お母さん、助けて!」と叫ぶ。この時、本当は母を頼りにし、愛していたことを夏帆は覚るのだ。つまり佐原は移動性の象徴なのだろう。心の檻から出て、本当の自分の姿へ移動していくことの大切さを夏帆に告げようとしていたのだ。

 夏帆はシロアリの女王との闘いに武蔵境の「とぎや」の主人が研いだ「“とくべつ”な刃物」を使う。その刃物の柄は腎臓の形だ。腎臓は身体の最も背部にあって意識から遠い臓器。左右二つある。つまりこの物語は夏帆の心の底の底、魂の闘い。善と悪との闘いの中で、夏帆の魂を善へと導く「“とくべつ”な刃物」なのだろう。

 作中、夏帆がかく絵本に10歳のミソラが猫のスカーレット・ヨハンソンに導かれて「象の卵」を探しに行く印象的な話が出てくる。象はデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭に登場する動物。村上作品に象が出てくる時、それは「言葉」に関係している。「象の卵」には“善き物語”が生まれ出(い)ずる力が託されているに違いない。

 異界を通って本当の顔を見つける夏帆の成長が実に平明な文で書かれている。新しい村上春樹の誕生だ。

むらかみはるき/1949年京都府生まれ。『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『東京奇譚集』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』などの小説の他、『レイモンド・カーヴァー全集』など訳書多数。

こやまてつろう/1949年群馬県生まれ。元共同通信社編集委員。著書に『村上春樹クロニクル』『村上春樹の動物誌』など。

夏帆 The Tale of KAHO

村上春樹

新潮社

2026年7月3日 発売