他の誰もわかってくれなくても、この本なら自分のありのままの感情を受け入れてくれる。一穂ミチの『たぶん、恋しい』を読んでいると、そんな気がしてくる。本書は6篇を収める短篇集だ。〈通勤電車で、たまに透明人間と会話しているおじさんを見かける〉という書き出しの「エンパイアライン」など、どの話もツカミが強い。一瞬で引き込まれた物語の中には、風変わりだけれど自由でやさしい世界が広がっている。
「エンパイアライン」は、電車でひとり会話しているおじさんの〈エンパイアライン〉という言葉が、語り手の男性と猫を溺愛する女性を結びつける。彼女の猫には、ある秘密があった。男性は戸惑いながらも彼女と猫と一緒に暮らすようになるが……。苦しい現実を生きのびるため、他者には見えない〈帝国〉をつくる人たちが描かれている。
〈生理が爆発した〉で始まる「月を経る」は、48歳の女性が主人公。そろそろ閉経を迎えるというときに突然出血量が増えたことを、生理が爆発したと表現しているわけだ。ひと回り年下の恋人との関係はうまくいっているけれど、結婚は考えていない。ただ、人生に用意されていた扉が、タイムリミットによって、ぱたんぱたんと閉じられていくことを意識している。彼女が、晩年まで舞台ででんぐり返りをしていた女優のことを思い出して〈日毎に新しい扉が開く年月を折り返せば、今度は戸締まりの連続が待っている。あの女優は、どれだけの努力で「前転」の扉を開き続けていたんだろう〉と考えるくだりがいい。タイトルの由来になっている場面も胸に沁み入る更年期小説だ。
読者によって好きな短篇は異なるだろうが、特に推したいのは最後に収録された「たぶんそんな感じ」。SNSの炎上が原因で会社を辞めた〈わたし〉が、幼いころ世話になっていたおばあちゃんを一時的に引き取ることになる。おばあちゃんと言っても、戸籍上の関係は大叔母だ。その事実を知ってからは、なんとなく疎遠になっていた。
高齢者向けの施設に入居していたおばあちゃんは、朝でも昼でも夜でもところかまわず口笛を吹きまくって、トラブルを起こしたらしい。施設の担当者が何を言っても口笛で返ってくるという。〈わたし〉はおばあちゃんをかつて暮らしていた田舎の家に連れて行く。そこにはおばあちゃんのルームシェアメイトだった男性が住んでいた。
〈わたし〉は20年ぶりの対面に緊張していたのに、再会したおばあちゃんは〈ヒュイーッと軽やかな高音〉を発するところが可笑しい。なぜ急に口笛を吹くようになったのか。どんな経緯で赤の他人の男性と同居したのか。いつもおっとりしていて、ザ・昭和なタイプのおじいちゃんに尽くしていたおばあちゃんの人生の謎に魅了される。ラストシーンも美しい。
いちほみち/大阪府生まれ。2022年に『スモールワールズ』で吉川英治文学新人賞を受賞。24年には『光のとこにいてね』で島清恋愛文学賞を、『ツミデミック』で直木三十五賞を受賞した。
いしいちこ/1973年生まれ。ライター、書評家。著書に『文豪たちの友情』『名著のツボ』、インタビュー集『積ん読の本』。
