頭脳プレーのアートというものがある
「傑作というのは、観客によって決定的に宣告されるものです。見る人こそが美術館をつくり、美術館に収蔵されるものを決めるのです」
とは、デュシャンの言葉。アートか否か、またアートの価値は、見る人が決めるというわけだ。彼はここに至って、アーティストとは創造を司る者であるという、漠然と信じられてきた神話を突き崩してしまった。
《自転車の車輪》の思想の延長線上に、《泉》もまたある。
《泉》が公開されたときには、非難の声が巻き起こったという。こんなのはただの既製品で作者は何も創造していないし、何より下品じゃないか!
これはまさにデュシャンの思う壺で、そんな声にはたちまち反問が叩きつけられることとなる。作者の創造がそんなに大事なのか? そもそもアーティストにのみ創造などという大それたことができるとなぜ信じられるのか。下品と非難するならば、品のある美しさを湛えていることがアートの定義とでもいうのか? と。
デュシャンは自身の活動やこうした騒動を通して、アートの再定義を試みていった。《泉》を巡る議論は、デュシャンの自作自演という話もあるほどで、彼の虚実ない交ぜの企みはどこまでも深くて複雑だ。なんとも「食えない人物」である。
他にも会場では、巨大なガラス板に花嫁や独身者機械を表すメカニカルな図像が刻まれた《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》)など、摩訶不思議な作品がたくさん観られる。
さらに、デュシャン作品の展示のあとには、写楽の浮世絵や千利休作と伝わる花入れなど、日本美術の名品を並べた展示室もある。もともと西洋とは異なる価値体系を持っていた日本美術に、デュシャンの思想との共通点を探そうとの試みである。
たしかに、たとえば千利休は自身が大成させた茶道において、安物の器を重用したりと価値の転覆を図った。デュシャンと同じものを見ていた可能性は、大いにあるだろう。
視覚を満足させるだけじゃない、いわば頭脳プレーのアートがここにある。新鮮な体験になることはまちがいないので、たっぷり味わってみたい。