「怒濤の四か月」の九年後には、信長の首と光秀の首も描かれる。

 乱世の魔界を生きる人間は「謡(うたい」に救いを求める。「謡」は困難な道を歩むことを選んだ人間が死後には救われる、という美しい幻である。長政も、光秀も、この幻を追った。

 魂の救済は、現実には存在しえない。けれども、幻は語り継がれることで、新たな歴史を作り出し、現実となる。

ADVERTISEMENT

 住田祐は、格調高い「謡=謡曲」の文体だけでなく、滑稽な狂言を思わせるユーモラスな文体も駆使している。

 光秀の「付け髪」は、彼の知られざる一面に光を当てており、出色である。

 第1章が「蛇の首」で始まるのは、晒されていた首が消え失せたことと、蛇には首がないことを重ねた洒落である。最終章が「蛇の足」であるのも「蛇足(だそく」の言葉遊びである。

 住田の重厚な文体には、飄逸な笑いが裏打ちされていて、バランスが取れている。新たな歴史小説の文体が、ここに生み出された。人間の心の真実と歴史の実相を写し取るための文体である。いわば「写心文」であり「写世文」でもある。

 本能寺の変に際して光秀に与(くみさなかった長岡藤孝(細川幽斎)は、『源氏物語』や『伊勢物語』の大家でもあった。幽斎は、物語には深刻な悲劇だけでなく、末摘花(すえつむはななど、「物語の誹諧(はいかい」という笑いの要素が必要だと唱えた。

 光秀の付け髪は、さしずめ「小説の誹諧」である。喜劇が、光秀の悲劇を際立たせる。

 幽斎は、『源氏物語』や『伊勢物語』の主題は恋愛ではない、と喝破した。民衆を治める為政者に必要な「憐憫の情」なのだ、と言う。

 住田祐は、光秀が信長に背いてまで求めた理念は、「天下の惻隠」だと言う。偶然の符合だが、「惻隠」は「憐憫」のことだろう。

 翻って考える。なぜ、歴史小説というジャンルは、多くの読者に迎えられてきたのか。

 読者が、人間だからである。自分の心を映す鏡を欲しているからである。

 ありのままの自分の姿。そうなりたいと願う自分の姿。そうはなりたくない自分の姿。

 住田祐は、光秀・信長・秀吉を通して、読者の心を映し出す鏡を鋳造した。むろん、作者自身の心も、この作品に埋め込まれている。

 そう思って『誰が首』の表紙カバーを本体からはずして眺めていると、息が止まりそうになった。蛇の姿が鏡に映って、こちらを見つめているではないか。

『誰が首』書影

 『誰が首』は、魔法の鏡であった。蛇のウロボロスを見ている私は、いつのまにか、若さを取り戻していた。三十年昔、歴史小説に希望と野心を託していた頃に戻っていた。

 老人に、昔の心を取り戻してくれる鏡、若者に、未来の心を先取りして見せてくれる鏡。それが、住田祐の歴史小説である。

 歴史の転換点を作り出すのは、人間の心の化学反応である。『誰が首』という鏡は、その神秘を映し出す。それを見た読者は、新しい未来をつかみ取る第一歩を踏み出す。それが、作者と共に新しい時代を切り拓くことである。

島内景二(しまうち・けいじ)
1955年長崎県生まれ。電気通信大学名誉教授、日本文学研究者、文芸評論家。著書に『湖月訳 源氏物語の世界』など多数。文春文庫では安部龍太郎『等伯(下)』、葉室麟『銀漢の賦』、青山文平『白樫の樹の下で』などの解説を執筆。

次のページ 写真ページはこちら