2019年4月19日、東京都豊島区で発生した池袋暴走事故。飯塚幸三(当時87歳)が運転するプリウスが暴走し、松永拓也さんの妻・真菜さん(当時31歳)と娘の莉子さん(当時3歳)が死亡、飯塚氏を含む10名が重軽傷を負った。この事故は、高齢ドライバーの問題や「上級国民」という言葉とともに、社会に大きな衝撃を与えた。

松永拓也さんの妻・真菜さん、娘の莉子さん  

 TBSの守田哲記者は、この事故の取材を重ね、被害者遺族である松永氏と加害者である飯塚氏長男との対話、さらには飯塚氏本人との面会までを実現させた。その記録をまとめたのが、書籍『池袋高齢者暴走事故 遺族と加害者家族の2060日』(文藝春秋)である。これは、被害者遺族のケアや苛烈な誹謗中傷といった社会問題が凝縮された事故の全貌、そして「上級国民」と呼ばれた男の生涯に迫るノンフィクションだ。

「よく自殺しなかった」苛烈な誹謗中傷

 守田記者が加害者である飯塚幸三氏の長男に初めて会った時、抱いたのは「よく自殺しなかった」という率直な感想だったという。事故以来、飯塚家には想像を絶する誹謗中傷が浴びせられ続けてきた。長男は日々、インターネットで父親の事故に関する情報を検索していた。それは事故と向き合うための一つの行為であったが、目にする言葉はあまりにも苛烈なものだった。

ADVERTISEMENT

 この誹謗中傷の現実が、報道のあり方に大きな制約をもたらす。守田記者は、被害者遺族の松永氏と飯塚氏長男の対話を「報道特集」で放送したが、その全てを伝えることはできなかった。

「たとえば、最初に長男が父親の事故について松永さんに謝罪の言葉を述べ、その後もやり取りが続く。その時、長男が『医師のアドバイスや支援が欲しい』などと言えば、そこだけを切り取られてネットにアップされ、『謝罪がない!』『何様だ!』と炎上のネタにされてしまうかもしれない」

 その結果、飯塚氏の長男の姿が映っている取材映像で、TBSのYouTubeチャンネルに公開できているものは1本もない。テレビというメディアには尺や作法の制約があり、伝えきれないことがあまりに多かった。それこそが、守田記者を執筆へと駆り立てた動機の一つでもあった。

 誹謗中傷の矛先は、加害者家族だけではなかった。被害者遺族である松永氏もまた、その標的とされたのである。交通事故被害者の現状を知ってもらいたいとメディアに出る彼の姿を見て、「承認欲求を満たすためではないか」と疑いの目を向け、叩く人々がいた。“悲劇のヒーロー”の足を引っ張り、目立つ人間を炎上させようとする。その攻撃のネタにされたのは、遺族支援団体への寄付金や民事裁判での損害賠償金など、金銭にまつわるあらゆることだった。

 守田記者は、世に流布する飯塚幸三氏の「上級国民」というイメージは、メディアの報道が結果的に関与して作り上げた、誤った像ではないかという問題意識を抱いていた。飯塚氏の長男を取材できた唯一の記者として、その実像を報じる責任がある。守田記者は、飯塚氏が遺した獄中日記、さらには1939年(7歳)から始まる少年期の日記まで入手し、ファクトを徹底的に積み上げることで、93年の生涯を書き切ろうと試みた。

 守田記者の取材は、まだ終わっていない。

「松永さんの闘いはまだまだ終わらないし、終われない。飯塚氏の長男の葛藤も続いている。これからどう生きていくのかを取材していきます」

 本書は、高齢ドライバーや高齢受刑者の問題を浮き彫りにするだけでなく、苦難に直面した時、人はどう生きるべきかという根源的な問いを、私たちに突きつけている。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。

次のページ 写真ページはこちら