攻撃を恐れ「民主化のふり」をした中東の独裁者たち。しかし一人の青年の焼身自殺が彼らの運命を狂わせる。SNSと日常の連帯。無名の「ふつうの人々」が次々と政権を打倒した「アラブの春」の深層とは――中東の現在地を理解するために避けては通れない民主化運動を、中東研究第一人者の酒井啓子さんが分析。『はみ出す中東と世界』より一部抜粋してお届けする。(第2回)
◆◆◆
アメリカの軍事攻撃を避けるため「民主化」のふりをした湾岸アラブ諸国
21世紀最初の10年間に荒れ狂った「対テロ戦争」が、中東の人々にとってなにか良いことをもたらしたことがあったとすれば、それは「政府が専横的、非民主的だとアメリカの軍事攻撃の標的となるかもしれない」という危機意識が芽生えたことだろう。非民主的さでいえば、湾岸のアラブ君主国もまた例外ではない。9・11の犯人の多くがサウジアラビア出身だったことで、米国内には「サウジのような議会も憲法もない国を同盟国としてよいのか」といった声が上がった。
こうした批判を回避するためか、湾岸アラブの君主制の国々の間で、「多少の」民主化への試みがなされた。最初に湾岸君主国が非民主性批判に晒されたのは、1991年の湾岸戦争の後だった――「戦争をしてまで非民主的なクウェイトを救う意味があるのか」という疑問が呈された――が、そのクウェイトでは、主権回復後、6年間解散され機能停止していた国民議会が再開され、国会選挙が1992年に実施された。選挙制度もない他の君主制国では、バハレーン、サウジアラビアで、任命制ではあるものの諮問評議会が1991~93年の間に開設された。
9・11後も同様に、いずれの国も「民主的」な正式を整えようと模索する。バハレーンでは2001年に立憲王政に道を開く国民憲章が制定され、2002年に地方議会選挙が45年ぶりに実施された。サウジアラビアでは1993年に設立された諮問評議会の定数が2001年には当初から倍となったほか、2009年には地方議会が設置される計画が発表され、そこでは半数の議員が選挙で選ばれるものとされた。
「非民主的」という、脛に傷を持つ国といえば、君主制諸国だけではない。アラブ・ナショナリストに率いられた長期権威主義政権は、いずれも欧米から「ならず者」視されて「対テロ戦争」の対象になってもおかしくない。親米同盟国だが20年以上政権を維持してきたエジプトのフスニー・ムバーラクもまた、その長期権威主義体制を批判されてきた。そのイメージを回避するため、2005年末に実施されたエジプト人民議会選挙は、制約付きながら複数政党制の導入を謳い、「民主化」の衣をかぶった。
Quirinale.it, Attribution, via Wikimedia Commons
ところが、「見た目の民主化」ですら、政権の安泰を脅かしかねない結果となった。与党は引き続き7割以上の議席を確保したものの、無所属で立候補したムスリム同胞団員が2割弱を獲得したのである。この結果、5年後の2010年に実施された選挙では、政権による激しい介入と衝突、野党のボイコットなどで荒れ、結果同胞団はほとんどの議席を失い、与党は議席の8割を獲得した。
このときには、ムバーラク政権はまだ、2か月後に自分がどういう運命を辿るのか、知る由もない。「対テロ攻撃」を恐れて少々民主化の振りをする、程度では避けられない、大激震が中東諸国一帯を襲うのである。
「アラブの春」が始まったチュニジア、2010年12月
それは、チュニジア中部の小都市、スィーディー・ブーザイドで起きた。12月17日、無認可で露店商を営んでいた26歳の青年が、その違法行為を警察に咎められ、ハラスメントを受け、店を接収されて活計を失った。その足で県知事に訴えたが、耳を傾けてもらえず、世を儚んで知事庁舎の前で焼身自殺を遂げた。
ただの若者の失業、ただの警察の横暴であれば、世界中にある数多くの不幸のひとつでしかなかっただろう。だが、青年――ムハンマド・ブーアズィーズィー――の場合、その後に起きたことが違っていた。自殺、しかも体を傷つけての死がイスラームで厳に禁じられているにもかかわらず、焼身自殺を選んだことは、それだけ絶望が深かったことを意味している。そのことに、似たような境遇にある数多の、老若男女のチュニジア人が強く同情、共感した。彼らは自然に街路に繰り出し、抗議のデモを始めた。デモは各地に広がり、10日もすれば首都チュニスに、そして全国に広がった。
デモは自殺した青年への連帯、警察への抗議から始まり、労働組合を巻き込んで、生活苦、失業問題など経済政策への批判へと発展した。当時チュニジアだけでなく中東地域では、気候変動の影響もあって、食糧不足、食糧価格の急騰が深刻だった。デモ隊には、フランスパンを抱えて訴える「バケットおじさん」が出現し、ときにバケットをライフルに見立てて警官隊と対峙した。
要求は政治批判、政権批判へと発展し、翌年の年頭には当時の大統領ゼイン・アービディーン・ビン・アリー(ベンアリー)の辞任を求めるスローガンが掲げられるようになった。連日の民衆による抗議デモが内務省など政治中枢にまで及ぶに至って、1月14日、ベンアリーはサウジアラビアに亡命した。ここに23年の長きにわたるベンアリー政権が、そして1957年以来チュニジアで続いてきた世俗的ナショナリスト政権が、終わりを告げたのである。政変は、チュニジア革命、あるいは欧米諸国からは「ジャスミン革命」と呼ばれた。ちょうど数年前に、東欧、中央アジア諸国で花の名を冠した民主化革命が続いていたので、それをもじったものである。
こうした一連の展開は、誰も予想しなかった。逆に、アフガニスタン戦争やイラク戦争でもない限り、中東の権威主義体制は頑強で簡単には倒れない、という見解が定着していたところだ。アジアやアフリカ、最近では冷戦後の東欧諸国が次々に「民主化の波」に覆われて行ったのに、中東だけには「民主化」や「市民革命」は訪れない。欧米のオリエンタリストたちがいう、「中東例外論」である。アラブ世界では50~60年代には頻繁に政権が代わっていたが、それはもっぱら軍によるクーデタによるものだった。民衆の手によって政権が代わる、というのは、建国以来、あるいは植民地支配から脱却して以来、初めての出来事だったといっても過言ではなかろう。
アラブ諸国の長期権威主義体制の安泰が、北アフリカの小国チュニジアで、その一角が崩れたのであった。

