エジプト 2011年1月

 チュニジア革命は、瞬く間に全アラブ諸国に衝撃となって伝わった。とりわけ、同じ北アフリカのエジプトは、その波が到達するのが早かった。30年にわたるムバーラク政権の権力独占には、民衆の不満が募っていた。特に、2010年6月に若きブロガー、ハーリド・サイードが警察に連行され、拷問のうえ殺害された事件は、チュニジアでのブーアズィーズィーの自殺と同様に、エジプト人、特に青年層の間で衝撃と共感を生んでいた。人民議会選挙で与党が大勝したことも、民衆の閉塞感を強めただろう。

 沸点に達しつつあったエジプト社会に、チュニジア革命の成功は、吉兆と映った。首都カイロのタハリール広場には、何万もの民衆が集まり、ムバーラクの退陣を迫った。なかでも1月25日の「怒りの日」デモは最大規模の集会で、これを排除しようとした治安警察と衝突したが、鎮圧行動に屈しない人々は広場に座り込み、以降タハリール広場は抗議運動グループの「解放区」と化した。ここを拠点として、デモ隊は連日各都市の街路に繰り出し、特に金曜日には金曜礼拝に参加したふつうの人々がデモに合流するという、自然なサイクルができたのである。

 この繰り返される波に、ムバーラクはとうとう2月11日に辞任を余儀なくされた。ムバーラクを支えていた軍が、抗議運動を抑えられない大統領を見捨てたのだと言われている。

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カルロス・ラトゥッフによる風刺漫画。チュニジアでの政権崩壊がエジプトのムバーラク政権を始めとする周辺諸国に広がる様が描かれる
Carlos Latuff, Public domain, via Wikimedia Commons

 エジプト、チュニジアと「革命」が続いたことで、欧米メディアはこれを「アラブの春」と呼んだ。冷戦期、チェコで短期間進められた自由化、民主化運動「プラハの春」をもじったものである。冷戦期の東欧での自由化運動がドミノ倒しのように共産党体制を倒していったように、「アラブの春」も、それぞれの革命は個別の事情を抱えていたとはいえ、アラビア語、アラブ民族、アラブ文化といった要素を多く共有する国々の間で「革命」が連鎖することは、ある意味当然の成り行きだったろう。

 当時広がりつつあったSNSで人々は国境を越えて連絡をとりあい、動画で流されるデモ参加者からの実況中継を受け、抗議する人々は、どこに逃げるか、どう動くか、臨機応変に対応した。このようにして、アラブ諸国22か国のうち、カタールとUAEを除くすべての国で、「アラブの春」が広がったのである。

 紅海をはさんだイエメンでは、エジプトでの展開をほぼなぞるように、路上抗議運動が広がっていった。政権内の調整や部族対立などが絡んで抵抗は長期化し、衝突も絶えなかったが、2012年2月にようやくアリー・アブドゥッラー・サーリフ大統領が退陣し、アブドラッボ・マンスール・ハーディー副大統領に権限が委譲された。この時民主化運動を手動した女性、タワックル・カルマンが、2011年のノーベル平和賞を受賞した。

「革命の母」とも呼ばれるタワックル・カルマン氏
Jindřich Nosek (NoJin), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

新しいナショナリズムとしての「アラブの春」

 イエメン同様に政権転覆に時間がかかったのは、リビアである。リビアでは、1969年に王国を打倒して権力を握ったムアンマル・カッザーフィが、42年の長きにわたって国家の長についていたが、エジプトでの政権転覆を契機に反政府蜂起の動きが全国に広がった。激しい内戦の末、10月、カッザーフィは出身地のスルトで反政府派に拘束され、「処刑」された。

 だが、エジプト、チュニジアの例とリビアの例が決定的に違っていたのは、国際機関、グローバル大国など外国の介入の有無である。リビアはフランス、イタリアへの主要石油輸出国でもあり、西欧諸国と経済的に密接な関係を持つ。EU、国連やNATOは早い段階で介入を決定、特にNATOの空爆が内戦を反政府側に有利に導いた。

 対照的に、エジプト、チュニジアの反政府運動が徹していたのは、日常生活上の不満から政権を批判、退陣を求める、というプロセスだった。それは、自国の政権を相手に、国民が自らの運動によって政権に圧力をかけるものであって、そこには大国との関係や国際政治上の駆け引きといったものは、見られなかった。アルカーイダの前身のムジャーヒディーンが東西冷戦の駆け引きを利用したような、イラクのフセイン政権がアメリカの反イラン姿勢を利用したような、あるいはPLOがアメリカの湾岸戦争の負い目を利用して和平にたどり着いたような、現状打開のために大国の関与を求めるこれまでの「中東の現状変更勢力」とは、決定的に異なるのである。

 エジプトやチュニジアで見られる「アラブの春」の自国完結性は、その運動形態にも表れている。「アラブの春」の最大の特徴は、「ふつうの人々」が日常性のなかで行動したことだった。広場で座り込んだ若者に、周囲の大人たちが食料を差し入れる。催涙弾で目が見えなくなったデモ隊に、雑貨屋の主人がただでミネラルウォーターを配る。

「アラブの春」の際のタリハール広場
Jonathan Rashad, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

 デモ隊が座り込んでいると、そこにはギターを持ち込む者が現れる。売れない歌手が唄を歌い、売れない詩人が詩を吟じる。ある者は広場近くの壁に風刺画を描き、ある者はビデオカメラを回して映画を撮る。政権批判の封印を解くとともに、権威主義体制下で閉じ込めていた自らの自由な精神、才能を解放したのが、「アラブの春」だった。

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酒井 啓子

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