日本軍約4600人がほぼ全滅した1943年11月「タラワ島の戦い」。玉砕の島で奇跡的に生き延びた一人の日本兵は、飢えと渇き、そして捕虜になるまでの地獄の日々を証言していた。(初出:特集文藝春秋 1956年4月)【本編へ続く】

※本文中ではアメリカに残された貴重な戦時写真をAIでカラー化。83年前の激戦と日本兵の姿を“色”でたどります。

◆

ADVERTISEMENT

<英領ギルバート諸島のタラワ環礁。その南西端にあるベティオ島には、日本軍が飛行場を建設し、ヤシの丸太やサンゴ砂、鉄筋コンクリートを使った堅固な陣地を築いていた。柴崎恵次海軍少将率いる兵力は約4600人だった。

 1943年11月21日、米軍が上陸を開始。激しい艦砲射撃と航空攻撃の末、ベティオ島は数日で陥落した。米軍も約3400人の死傷者を出したが、日本軍はほぼ全滅した。筆者は当時、この島で戦車隊に所属していた水兵だった。>

火炎放射器を使用する米海兵隊員(1943年撮影)。タラワ島の戦いで撮影されたとみられる 原写真:U.S. Marine Corps カラー化:文春オンライン編集部

 筆者がラバウル基地から一度内地へ戻り、戦車隊を志望してタラワへ転勤したのは昭和18年6月のことだった。11月21日の未明、水平線上に敵艦船が現れ、艦砲と空爆が島を覆った。戦車壕で待機していた筆者は、上陸してくる米兵に砲火を集中し、「砲身の焼ける程打ちまくった」。それでも米兵は「戦友の死体をふみこえて」桟橋にとりついたという。弾薬庫と食糧庫を失った日本軍は、物質的にすでに米軍の敵ではなかった。

 その後、戦車は燃料不足で動けなくなる。戦車から出ようとした時、先に出た2人の戦友は艦砲で「あとかたもなく」吹き飛ばされた。25日には最後の突撃が決まり、玉砕の報が打電された。筆者は防空壕で待機していたが、敵機に発見され、爆弾と投げ込まれた爆薬で壕内は「一瞬で地獄と化した」。さらに火焔放射器の炎が襲いかかったのである。

 意識を取り戻した筆者は、身動きの取れない体で薄暗い壕内を見まわした。生死を共にと誓い合った15人の戦友は、すでに亡くなっていた。自分は戦友の死体の陰にいたことで命を拾い、顔に火傷を負った程度だった。「私の上には黒こげの死体が重なり、あたり一面、ちぎれた手足が散っていた」と記している。

<奇跡的に生き残びた筆者はその後どうなったか? 日本へ帰還すると、“自分の墓”との対面が待っていた。その様子は本編で詳しく語られている。>

次のページ 写真ページはこちら