道徳的錯覚と道徳的退行
ガブリエル その通りです。今日のエネルギーシステム、AI、ジェンダー関係、グローバル・ジャスティス(国境を越えた正義)についても、同じことが言えると思います。私たちはもはや奴隷制については混乱していません。しかし、他の多くの問題については、依然として混乱しています。おそらく私たちも、かつての社会が奴隷制についてそうであったのと同じくらい、いくつかの点で道徳的錯覚の中にいるのでしょう。
たとえば、ドナルド・トランプが大統領になった事実は、ジェンダー理論やポストコロニアル理論のすべてが間違っていたことを意味しません。それらの分野にも、正しい考えと誤った考えの両方が存在します。それは他の科学的・知的分野と同じです。
しかし、社会がすでに獲得した道徳的知識を消し去ろうとするとき、道徳的退行が起こります。だから私は、現在のアメリカ政治の一部を道徳的退行だと見なしています。
たとえば、USAIDによる国際援助をほぼ打ち切ったり、ロバート・ケネディ・ジュニア(保健福祉長官)などが反ワクチン・イデオロギーを広めたりすることは、直接的に麻疹などの防げたはずの死を増やします。圧倒的な証拠が存在するにもかかわらず、ワクチンの有効性を否定することは、単なる知的誤りではなく、道徳的誤りなのです。その意味で、ワクチン否定論は、再び奴隷制を正当化しようとするようなものです。社会はすでに必要な道徳的知識を持っているのに、それを放棄することは退行を意味します。
さて、ここで経済学者の方はこう問いたいはずです。「そんな曖昧な状況において、道徳的事実をどう見出して、制度化し、運用するのか」という問題です。
成田 ちょうどそうお尋ねしようと思っていました(笑)。
ガブリエル 私の答えは、学際的な探究システムが必要だ、ということです。哲学者、歴史家、人類学者、計量社会科学者が協力し、さらにAI支援による行動分析も必要です。大規模データと倫理的推論を組み合わせることで、まだ部分的にしか見えていなかった道徳的事実を発見できるようになります。
(翻訳 大野和基/構成・伊藤秀倫)
※約9500字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(マルクス・ガブリエル×成田悠輔「“哲学界のロックスター”マルクス・ガブリエルが提唱する『倫理的資本主義』と『渋沢栄一』の意外な関係」)。全文では、以下の内容が語られています。
・グリーン移行は道徳的事実か
・再分配システムを設計すべき
・チーフ・フィロソフィー・オフィサー
