そこで働いたのはわずか18日間。質屋に入れた品物を取り戻せるだけの金がたまると、店を辞めた。千代は料理を運ぶ側で、芥川は名前も顔も知られた客だった。
芥川と知り合ったのも、恐らくこの店だった。晩年の千代は、芥川に憧れた理由も飾らないで話している。売れっ子だったから惹かれたのかもしれない。何より、男前だった。痩せて蒼白い顔、その顔立ちに惚れぼれしていたのだろうと振り返る。一方、大人になってからは、文学者としてそれほど尊敬していたわけではないとも言う。どこまでも率直だ。
文壇で最も尊敬する「芥川ではない作家」
当時、千代自身も、すでに小説を書いていた。
文筆活動は、岩国時代の同人誌から始まっていた。恋愛問題で騒動を起こした後に渡った朝鮮では雑誌『朝鮮及満洲』の編集助手を務めた。上京後には実業之日本社の事務員として働き、出版に関わる仕事に興味を持っていた。どの仕事も長続きはしなかったが、東京へ来てからは、自分の文章を書くことも増えていた。
上京した千代が最初に訪ねたのは、私淑していた小川未明の家だった。1922年5月15日付『読売新聞』朝刊には、こんな言葉が残る。
「私が文壇で尊敬しているのは小川未明氏で、これまでも上京毎によくお伺い致しましたが」
千代は未明の創作に対する真摯な態度や話しぶりに接すると、涙ぐましいほど感動したという。「思想的にも氏の影響を受けているかも知れません」とまで書いている。
札幌へ移る前の東京時代、千代は日刊紙『万朝報』が毎週募集する懸賞短編小説へ作品を送っていた。1919年7月には、宇野千代の「習作」が選外ながら、当選作に次ぐ作品として評価されている。
憧れの人の家に行った思い出
では、肝心の芥川とはどうだったのか。後年、取材で田端へ向かう車の中で、千代は芥川の家はもう残っていないのだろうと口にする。この頃、千代はもう90歳前後だ。芥川の家へ通っていたという話を向けられると、文学少女だったから憧れて訪ねたのだろうと若い日の自分を思い描く。