芥川の家は、1945年の空襲で焼失していた。旧居のあった場所を訪れた千代は、目の前の万年塀と山茶花の木が昔からのものなのかと尋ねる。そこから話は、かつて大勢の人が出入りした芥川家に移っていく。
そこは文学サロンのような場所だった。千代はその末席に座らせてもらうだけだった。それでも嬉しくて、ドキドキしながら下を向いていた。文学論に加わるなど、とてもできなかったという。雑誌に載る芥川の小説も読んだに違いないが、どの作品だったかは思い出せない。
そもそも、芥川は花形の作家で、雲の上の人だった。自分が作家になってからも付き合いはなく、会合で顔を合わせることもなかった。「『つき合う』というようなことじゃないのよ」。千代はそう振り返っている。
短編小説に描かれた「もう一つの接点」
ただ、芥川との関係はそれだけではないからややこしい。芥川の作品に、自分の経験が使われたのではないか。『新小説』の1920年1月号に発表された短編『葱』だ。
主人公は、髪結いの二階に間借りするカフェ勤めのお君さん。若い男との外出に胸をときめかせているが、八百屋の「一束四銭」の葱を見た途端、部屋代や米代などの支払いを思い出す。男を待たせて二束買い、相手の甘い気分をすっかり吹き飛ばしてしまう。
千代にも、若い男との散歩中に葱を買った覚えがあった。相手は作家の今東光だった。のちに出家し、中尊寺の貫主も務め、歯に衣着せぬ物言いから「毒舌和尚」とも呼ばれた人物である。ところが、千代の目に残る東光は「絶世の美少年」だったころの姿だ。抜けるように色が白く、目が大きく、真っ黒な髪がふさふさしていた。そう話しても、誰も信じてくれなかったというから歳月は残酷だ。
東光と知り合ったのも燕楽軒だった。毎夜のように店の外で待ち、千代を住まいまで送ってくれた。ドラマ「ブラッサム」で仕事を終えた珠を待ち構える左良太(演・北野秀気)を思わせる姿である。
千代が店を辞めたあとも東光は、髪結いの二階にある住まいをしばしば訪ねた。二人はよく散歩し、何度も氷水屋に立ち寄った。そんな中、八百屋で「一束二銭」の葱を見つけると、千代は駆け寄って買った。隣に美少年がいても、安い葱は目に入る。