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2018/10/21

“脱サラ”マンガ家がタレントになったきっかけ

 長崎に育った蛭子は高校卒業後、地元の看板店に勤務するかたわら、マンガを描き続けた。その後上京し、1973年、マンガ雑誌『ガロ』に作品が初めて掲載される。だが、『ガロ』は原稿料が出なかったので、プロとしてのデビューは、1979年に『JaM』という自販機雑誌から連載を依頼されたときということになる。3年後、会社を退職して、本格的にマンガ家生活に入った。

復刻された『私はバカになりたい』(青林工藝舎)

《辞めて大丈夫かどうか、綿密に計算しましたよ。当面の貯蓄、退職金、失業保険、今後の収入の見込み。見込みは、連載など、確実性の高いものだけを計算しました。それらと1ヵ月の生活費を比べて、『これなら生活していける』と判断してから辞めたんです》(『THE21』2015年10月号)

 だが、実際にマンガだけで食べていくのは大変だったようだ。そもそも数をそれほどこなせないし、原稿料もけっして高くない。そのうちアイデアも浮かばなくなった。ちょうどそんな時期、ポスターを描いていた縁で「劇団東京乾電池」の舞台に出演。これをきっかけにテレビにも出演するようになる。やがてタレント業の収入は、本業のマンガでの稼ぎを上回り、現在にいたる。

「本当のひとりぼっちは、やはりつらい」

 蛭子は昔から、いつも自由でいたい、誰にも縛られたくないという気持ちが強く、人と深くつきあうことが苦手だったため、「友達は本当に必要なのか」と疑問を抱いてきたという。2014年には、その思いをつづった『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)という著書を出版、これを機に彼の独特の人生観が注目されるようになった。

 ただし、《本当のひとりぼっちは、やはりつらい》とも書いている(蛭子能収『ヘタウマな愛』新潮文庫)。彼がそれを思い知ったのは、2001年、マンガ家になる以前より彼を支えてきた最愛の妻と死別してからだった。その後、婚活を続けた末、2007年には雑誌の企画で知り合った19歳下の女性と再婚する。

1990年に取材したころの蛭子さんの仕事場 ©文藝春秋

「最近は麻雀も全然してないし、競艇もあんまり行ってない」

 それまで自由に生きてきた蛭子だが、再婚してから考え方が少しずつ変わってきたという。

《ギャンブルが大好きだったけど、最近は麻雀も全然してないし、競艇もあんまり行ってない。忙しいというのもあるけど、女房が僕と一緒にいたいって言ってくれるんです。これまで結婚しても1人で遊んでることが多かったので、女房孝行みたいのをあんまりしたことがないんですよね。そういうことをやっていかなきゃいけないな、と》(『新潮45』2017年6月号)

 70歳を迎えて徐々に“変節”しながらも、仕事はできるだけ断らず、稼ぐことにはあいかわらず貪欲だ。ある雑誌のインタビューでは、《こういう雑誌の仕事だって、ギャラが高ければ高いほど嬉しいです》と正直に語っている(『プレジデント』2016年11月14日号)。そんなふうに空気を読まず、顰蹙を買いそうなことをつい口にしてしまう彼の態度こそ、人間関係に疲れがちな現代人が憧れるところなのかもしれない。

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