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テレビの現場から、ピチカート・ファイヴはどう見えていたか

坂口 1977年くらいから、それまでマイノリティだったものがどんどんメジャーに転換されていきました。インディーズでやっていたようなグループがビクターから堂々とデビューしたりして。そこでクレジットを見ると、鈴木慶一さんや加藤和彦さんといった人たちが関わっていて。歌詞についても、プラスチックスとかの影響で、言葉にはとくに意味がなくても連呼して繰り返すことで楽曲としては良いものになったり、楽器なんか演奏できなくても音さえ出ればどうにでもなるっていう。それまでの価値観がゴロッと変わっていったんです。

おぐら 90年代になり、ピチカート・ファイヴが世界的にも評価されていく中で、坂口さんは当時お笑いの世界にいたんですよね。

坂口 はい。学生時代は関西にいて、音楽ライターをやったり、野宮さんが組んでいたポータブル・ロックも在籍していた水族館レーベルのツアーについて行ったり、音楽事務所にも出入りしていたんですが、その後いろいろあってシティボーイズのマネージャーをやることになりました。

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速水 その「いろいろ」が気になりますけど(笑)。

 

おぐら 1992年のシティボーイズ・ライブ『鍵のないトイレ』から、音楽を小西康陽さんが担当するようになったのは、坂口さんが仕掛け人だったんですね。

坂口 経緯としては、それより前、スネークマンショーの桑原茂一さんのラジオを手伝ったりしている時に、茂一さんがシティボーイズの3人と、竹中直人、中村ゆうじ、いとうせいこうを集めて「ドラマンス」というユニットを作ったんです。

おぐら 「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」の前身になった演劇ユニットですね。あれにも坂口さんが関わっていたんですか。

坂口 そこで初めてシティボーイズ、中村ゆうじ、いとうせいこうが会うんですよ。だから出会いのきっかけは茂一さんなんです。そこから僕が音楽に詳しいってことで、シティボーイズ公演の選曲を手伝うようになって。当時、大竹まことが中京テレビの『5時SATマガジン』という音楽番組の司会に決まったり、フジテレビの『夕やけニャンニャン』に出ることになったりして忙しくなってきたので、「おまえ音楽とか詳しいからマネージャーやれ」ってことで当時の所属事務所である人力舎に入りました。それが1986年ですね。

おぐら テレビの現場からは、ピチカート・ファイヴはどのように見えていたんでしょうか?

坂口 それが面白いことに、テレビの音効さんたちがみんな、ピチカートの曲のイントロをループさせて番組のBGMに使っていたんです。あれは発見でしたね。ちょうどシティボーイズの公演を映像商品化するにあたって、使用楽曲の権利関係で悩んでいたこともあり、これはもう小西さんにステージのサウンドトラックを作ってもらうしかないって。その仕事がきっかけで、野宮さんとも10年ぶりくらいに再会しました。

 

(#2に続く)
写真=佐藤亘/文藝春秋