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テレビの現場から見た「渋谷系」と「ピチカート・ファイヴ」の世界――野宮真貴×坂口修インタビュー

野宮真貴×坂口修 #1

note

野宮真貴がスクールメイツに入っていたかも?

おぐら 収録曲の中で、野宮さんが歌いたいと希望した曲はありますか?

野宮 トワ・エ・モワの「或る日突然」は私の希望です。子供の頃から歌謡曲はよく歌っていました。

坂口 この曲を作曲した村井邦彦さんも、渋谷系のルーツと言える存在ですね。

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速水 ほかに子供の頃に好きだった歌手でいうと?

野宮 たくさんいますけど、麻丘めぐみさんはファッションリーダーとして好きでしたね。髪型も衣装もすごく可愛かった。

 

おぐら 歌手になりたいと思ったのは、何歳ぐらいの時ですか?

野宮 もう小学校の時からです。当時NHKの『ステージ101』という番組があって、そのメンバーになりたかった。全国でオーディションをしていて、男の子たちはスラックス、女の子たちはミニスカート。スクールメイツの前身になったようなファッションで、歌って踊るんです。

坂口 けっこう洋楽も歌ってましたよね。

野宮 番組は私が応募できる年齢になる前に終わってしまったので、その願いは叶わず。

坂口 もし番組が続いていたら、野宮真貴がスクールメイツに入っていた可能性もあった。

野宮 受かっていればね。バトントワラー部にも入っていたので、歌って踊れる歌手は憧れでした。

速水 そのあとオーディション番組に応募したりとかは?

野宮 『スター誕生!』には出ようと思ったことありますよ。でもその頃はグラム・ロックとかを好きになっていて、もう自分たちでバンドを組むようになっていたので。

速水 バンドを組んでいた時の歌い方は、今とはだいぶ違いますか?

野宮 バンドを組んでいた頃は、自分の声はロックに向いてないとわかっていたので、ボーカルじゃなくてギターをやっていたんです。その後しばらくして、プラスチックスとかニュー・ウェーヴの時代がきて、あぁ…やっと自分にも歌える音楽を見つけた! って。そこから音楽性もファッションも全部ガラッと変えて歌いはじめて、今のボーカルスタイルが完成したと思います。

 

おぐら 1981年のデビューアルバム『ピンクの心』は鈴木慶一さんのプロデュースですね。

野宮 きっかけは、バンド友達だったハルメンズ(サエキけんぞう在籍)が先にデビューすることになり、コーラスを頼まれてスタジオに行った時に、担当ディレクターさんからスカウトされました。

坂口 慶一さんはハルメンズの音楽ディレクターをやったりしていて、近かったんですよ。

おぐら 70年代後半から80年代の日本におけるニュー・ウェーヴが、後の渋谷系に直結していく感じが伝わってきますね。