突然の訃報だった。コラムニストとして活躍した勝谷誠彦氏が11月28日、肝不全のため亡くなった。57歳だった。勝谷氏のひとつ先輩にあたり、文藝春秋でともに編集者として働いたノンフィクション作家の柳澤健氏が、死を悼み、思い出を綴る。

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 初めて会ったのは1985年の春、場所は創刊直前の『Emma』編集部だった。

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 勝谷誠彦は早稲田大学おとめちっくクラブ出身。私が大学時代にまんが専門誌『ぱふ』に関わっていたと聞くと、竹宮恵子ファンクラブ『さんるーむ』会員番号No.1の会員証を見せてくれた。私は目を丸くして驚いたが、そんな反応をするのは、当時の文春社内でも私くらいだったろう。

 勝谷も私も、文藝春秋ではあまりにも異質な存在だった。定年までつとめ上げるのは最初から無理な相談だった、と今は思う。

 兵庫県尼崎市の医者の息子で、幼い頃は神童だったが、灘高に入って落ちこぼれた。

 一浪して入った早稲田大学第一文学部では同級生の小川洋子らとともに平岡篤頼の指導を受け、小説や詩に熱中、自作が「早稲田文学」に掲載されたこともあった。

 両親は息子が文学部に行くことを許さず、仕送りをストップしたから、風俗ライターの傍ら編集プロダクションを経営、学生の分際で、収入は大企業の管理職クラスだった。

「文春に入ってから収入が落ちた」と勝谷は笑う。

 私とは『Emma』と『週刊文春』で一緒だったが、勝谷は恐るべき新人で、プランは出る、文章は達者、写真も撮り、無線を扱い、その上、人まで使うことができた。

 私が上回る点はひとつもなかった。

とにかく酒が好きだった勝谷氏 ©文藝春秋

 そんなオールマイティの編集者が、唯一苦手だったのが、名物企画「顔面相似形」のそっくりさん集め。勝谷が持ってくる写真があまりにも似ていないので、デスクの西川清史さんと大笑いしたことを覚えている。

 女子高校生コンクリート詰め殺人事件の記事を書いたのも、不肖宮嶋というキャラクターを作ったのも、宮嶋茂樹カメラマンと一緒に「原色美女図鑑 湾岸スペシャル」をやったのも勝谷だ。

 花田紀凱さんが『マルコポーロ』事件の余波で退社してからまもなく、勝谷は「こんなクソみたいな会社」と吐き捨てて文春を辞めてフリーになった。「あいつには週刊の編集長をやらせたかった」と花田さんは嘆いたが、以後の大活躍は私が書くまでもないだろう。特に関西での人気は凄まじかった。