2010年に「虎番」を拝命して、9年が経とうとしている。ピカピカの1年生が思春期真っ只中の高校生になるぐらいだと思えば、9年という月日の長さと、速さを感じてしまう。僕も、20代前半の「若手記者」から30代半ばという微妙な年齢の「中堅記者」になってしまった。

 9年間、同一球団の担当を続ければ入団時を取材した選手が退団、引退していくことも珍しいことではない。その都度、感傷に浸っていてはキリがないのだが、やはり、彼との「別れ」は、特段に寂しく感じてしまう。10月に阪神タイガースから戦力外通告を受けた西田直斗。通算7年で1軍出場は、わずか1試合に止まり、1本のヒットも打てず先日、現役引退を決意した。

現役引退を決意した西田直斗 ©遠藤礼

「うどんの人」から始まった西田との仲

 タイガースファンを除いて、記憶に止めている人はほとんどいないかもしれないが……僕にとってグラウンド内外で一番、会話した思い出深い選手だった。

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 初めて取材したのは、阪神からドラフト3位指名を受けた後の2011年11月下旬。仮契約を結んだ際、体重増量に取り組んでいることを明かし「最近、友達とうどんを食べに行って、家に帰って皿うどんを食べて、おいしかったので、また同じ店にうどんを食べにいったことがある」という大食いエピソードを披露してくれた。

 当時、西田はやたらと「うどん」に食いついて質問してきた僕のことを「この人、野球のこと聞かずにめっちゃうどんの事聞いてくるやん」と“変な記者”だと認識していた。だから、あの時も笑ったのだろう。数日後に大阪市内のホテルで行われた入団会見で、たまたま正面に座って目が合うと「また、うどんの人が来てるやん」と言わんばかりに西田は終始、笑顔。今思えば、緊張感の無いふざけたやりとりかもしれないが、当時、顔見知りの選手もほとんどいなかった僕にとって、自分をはっきりと認識してくれた事実が、とても嬉しかった記憶が残っている。「西田直斗のプロ初安打の原稿を書く!」。気づけば、小さな目標ができていた。

病に倒れたお父さんを元気づけるために

 そんな彼に、柄でもない深刻な表情で打ち明けられたのは、2年目を終えた13年12月のこと。父・正哉さんが、突然、病に倒れた。「お父さんが死ぬと思って……めっちゃ泣いてしまいました」と、ショックを隠しきれない様子で、なかなか言葉をかけることはできなかった。しばらくは、車椅子での生活が続いたものの、幸い、快方へ向かった。翌年の3月21日。1軍に昇格して出場した京セラドームでのオリックスとのオープン戦に、正哉さんが観戦に訪れた。

 途中出場で打席に向かう息子の姿を見つけると、正哉さんは、おもむろに車椅子から立ち上がって声援を送った。「直斗の時だけ立って見てもうたわ」。後に家族から、その話を聞かされ「お父さんを元気づけられるのは自分しかいない」と、心を奮い立たせた。

 名門・大阪桐蔭出身。持ち前の巧打で開花を期待されながら、結局、1軍の舞台でヒットを打つ姿を正哉さんに見せることはできなかった。「今はお父さんも元気になってますけど、もっと活躍できたら、もっと早く良くなってたんじゃないかとか……。良い所を見せたかったですね」。家族、友人とお世話になった人に最後のユニホーム姿を見せるために受けた12球団トライアウト後に、正哉さんに「今までありがとう」と頭を下げた。わずかな悔いは、そっと胸にしまって、ありったけの感謝の思いを伝えた。