「箱根駅伝」は嘉納の考えを実現したものだった
嘉納がオリンピックにかかわるようになったのは1909年、近代オリンピックの創始者であるフランスのクーベルタンの求めで、アジアから初めて国際オリンピック委員会(IOC)の委員に就任したときである。当時のIOC委員の条件は「商業主義に冒されていない、高潔な人格者。そして、少なくともフランス語か英語をよく解する者」というものであった。クーベルタンの命を受けたフランスの駐日大使は、この条件に適った日本人を見つけるため、外務大臣の小村寿太郎をはじめ有力者たちに問い合わせたところ、いずれも「嘉納」という答えが返ってきた(※2)。
IOC委員となった嘉納は、1912年のストックホルムオリンピックへの日本選手団の派遣を大会関係者から要請される。ここから五輪参加の母体となる大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)が1911年に設立され、嘉納が初代会長に就任した。
教育者、また大日本体育協会会長として嘉納は一貫して国民体育の振興をめざした。とりわけ長距離走と歩くことを重視し、東京高等師範学校でも、学生を年に2回、約20キロ走らせている。また、単に走るだけではなく、神社や仏閣などの名所旧跡を走ることも提案した。体を鍛えるとともに地理歴史や産業についても学ぶことができるというのが、その狙いだ。のちの1920年に金栗四三らによって始められた箱根駅伝は、こうした嘉納の考えを実現したものでもあった(※3)。
“幻の東京五輪”招致に成功したスピーチ
嘉納は晩年、1940年の東京オリンピック招致のため、老骨に鞭打って各国をまわっている。1936年7月、4年後の五輪開催地を決めるドイツ・ベルリンでのIOC総会では、当時のIOC委員長のラトゥルが、最初に発言する委員として「IOCのもっとも古い委員である、日本の嘉納治五郎」と指名、嘉納が立ち上がると会場にはちょっとしたざわめきが起こったという(※2)。彼はこのとき76歳になろうとしていた。
東京での五輪開催については、ヨーロッパから遠すぎると反対の声もあった。しかし嘉納はIOC総会の演説で「日本が遠いという理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」とこれを退け、最後は「アジアの一角に全世界の若者が集まる時、世界は新しい平和への幕開けの時を迎えるであろう」と結んだ(※2)。果たしてIOC委員による投票の結果、東京は対立候補であったヘルシンキ(フィンランド)を9票上回る36票を獲得し、オリンピック開催が決まる。
嘉納は1938年、エジプト・カイロでのIOC総会で東京オリンピックの開催があらためて確認されたのを見届けた。すでに病の身にあった彼はその帰途、日本到着を2日後に控えた5月4日、客船・氷川丸の船上で息を引き取る。日本政府が、前年に始まった日中戦争を理由にオリンピックの開催を返上したのはそれから2ヵ月後、7月15日のことだった。
※1 クリストファー・W・A・スピルマン「嘉納治五郎――柔道と日本の近代化」(筒井清忠編『明治史講義【人物篇】』ちくま新書所収)
※2 鈴木明『「東京、遂に勝てり!」1936年ベルリン至急電』(小学館ライブラリー)
※3 真田久「嘉納治五郎の考えた国民体育」(菊幸一編著『現代スポーツは嘉納治五郎から何を学ぶのか――オリンピック・体育・柔道の新たなビジョン』日本体育協会監修、ミネルヴァ書房所収)