昨年夏に開催された「Swallows DREAM GAME」での野村監督
2009年に楽天の監督を退任して以来、長らく現場から遠ざかっていた野村監督(あえてそう呼ばせてください)。その監督が久しぶりにユニフォームに袖を通したのが昨年7月11日に行われたヤクルトOB戦、「Swallows DREAM GAME」だった。僕は昨年夏、この試合の裏側について、ヤクルト時代の教え子のひとり、池山隆寛氏に話を聞いていた。
「野村さんが球場入りしたのは出場メンバーが全員集合してしばらくたった後。ヤクルト時代と同じでなかなか話しかけられるものじゃないんだけど、僕らももういい年。古田(敦也)を皮切りにそれぞれみんな挨拶に行って、監督はそのたびに『おお、お前か。久しぶりやなぁ』なんて応じてました」
池山はDREAM GAME当日をそう振り返る。
「僕ですか? 僕は実は(昨年)4月に雑誌の企画で野村さんとギャオス(内藤尚行)と対談してたんで、そこまで久しぶりではなく簡単な挨拶をしたくらい。試合前は記念撮影をしたり、試合中もみんなでワイワイ。野村さんもベンチでそれを見てるって感じで現役時代にはないほほえましい光景だったね。もちろんボヤいてなんかいなかったよ(笑)」
好々爺となったこの時と比べて、在職時代の野村監督は厳格なボスそのもの。自軍選手をターゲットにした“ボヤキ”も多く、特に90年のヤクルト監督就任時、三振かホームランかという豪快なスイングで“ブンブン丸”の異名を取り、芸能人並に人気だった池山はその槍玉にあげられた。
「監督の就任発表があってすぐ、スポーツ新聞に『池山よ、タレントはいらん』って監督の発言が一面でデカデカと載って。まだ会ったこともないのにだよ。おいおい……って思うよね」
野村ヤクルト1年目で池山は打率.303、本塁打31、打点97とキャリアハイの成績を残すが、その年のオフの雑誌インタビューで「(前任の)関根(潤三)監督のほうがやりやすかった」との発言をしている。師弟関係は反発から始まっていた。
ミーティングは深夜まで及ぶことも
「野村さんの野球は“準備野球”。野球は確率のスポーツだから、たとえば打撃なら来る確率の高い球をいかに待てるか。それに向けて日頃からいかに準備ができるか、と言われてたけど、現役時代はピンと来てなかった。でも僕もコーチを経験して、ようやくそれがわかるようになった。“野村の教え”は確実に僕の指導の引き出しになってるよね」
池山は現役を退いた4年後の2006年に楽天の新監督に決まった野村監督から、直接打撃コーチの要請を受けた。現役時代は“野村の教え”がピンときていなかったはずなのに、なぜなのか。
「野村さんがヤクルトの監督になってから、キャンプ中は夕食後に毎日必ず1時間のミーティングをやる。そこでは野球だけじゃなくて人生論や仕事論なんかの話もするんだけど、とにかく板書されたことを選手はノートに書き続ける。みんなマジメに書いとったよ、(長嶋)一茂以外は(笑)。で、僕はそれを後から清書したりしてちゃんと残してたのを引退後にNHKが取り上げてくれて、野村さんがその放送をたまたま見てたみたい。それで声をかけてくれたんじゃないかな」
かくして再びベンチに肩を並べるようになったふたり。そして創設間もない弱小の野村楽天を4年目で2位に躍進させた。その陰には池山らコーチ陣の奮闘があった。
「バッテリーコーチの山田(勝彦)と一番に球場入りして相手チームのデータ収集と分析を毎試合してました。試合後は野村さんとコーチ陣でミーティングなんだけど、負けたら1時間半くらいかかる。一番参ったのは盛岡でのナイター後に、仙台に帰ってからミーティングをやると言われたとき。結局夜中の1時くらいまでかかった(苦笑)。ほんとあの4年間はしんどかったな。でも選手としての9年間よりも、楽天のコーチとして接した4年間のほうが濃かったような気はするね」
現役時代は故障期間があるとはいえ、計13年もの長期間、監督としての野村克也とベンチを共有した人物は他にいない。“タレント扱い”から始まった池山への評価は確実に変わっていた証だ。「ヤクルト時代も楽天時代もサッチー(沙知代夫人)から会うたびに『(息子の)克則をよろしくね』って言われてて、その教えを守ったからかな(笑)」と池山は冗談を挟んで続ける。
「(昨年)4月にやった雑誌の対談でも野村さんは『お前を勘違いしてたみたいで悪いことをした』という言葉もかけてくださったし、きっと僕をコーチに呼んで正解だったと思ってくれたはず。今になって、野村野球を一番知ってるのは僕ちゃうかなって自負もあるよ」