揺れが収まると、酪農家はすぐにやらなければならないことがある。乳搾りだ。停電したら搾乳機が使えなくなるので、そうなる前に搾れるだけ搾っておく必要があった。
幸いなことに、半杭さんの牛舎は停電せず、余震が続く中で何とか乳搾りを終えた。ところが、福島県酪農協同組合の施設が壊れて集乳できないと連絡があった。牛は毎日、乳を搾らなければ、乳房炎を起こす。半杭さんはこの日から、捨てるためだけに乳を搾り続けることになった。
津波が海岸の集落を呑み込んだ
小高区は被災時の人口が1万3000人弱だった。東西12kmの小ぢんまりしたまちながらも、東は太平洋に面し、西は阿武隈の山々に抱かれて変化に富んでいた。半杭家は海から10kmほど離れた山の麓にあり、急いで乳搾りをしていた半杭さんは知らなかったが、津波が海岸の集落を呑み込み、海から3・5kmほど離れた区役所の近くにまで押し寄せていた。市内全体では約40平方kmが浸水し、636人が亡くなった。
当時、市職員として小高区役所で働いていた半杭さんの妻昌子さん(67)は「泥だらけになった人が何人も助けを求めて来ました。着替えの備蓄はないので、職員用の作業着を渡しました」と話す。昌子さんは徹夜で被災者対策に当たった。
小高区を襲った「危機」はこれだけではなかった。福島第1原発で原子炉の暴走が始まっていた。
このため政府は翌12日早朝、同原発から10km圏に避難指示を出し、南隣の浪江町まで避難区域に入った。「家の近くの道路を避難する車が列をなしていました」と半杭さんは振り返る。ただ、この時も原発事故の影響が自分の身に降りかかるとは考えていなかった。
「まだ小高にいるの?」「早く逃げて」
同日午後3時36分、福島第1原発に6基ある原子炉のうち、1号機の建屋で爆発が起きた。政府は午後6時25分、避難指示区域を20km圏に拡大し、小高区は全域がそのエリアに入った。住民は避難所にいた人も含めて一斉に逃げた。昌子さんら市職員も小高区役所を引き払い、原発から25km離れた原町区(旧原町市)の南相馬市役所の本庁舎に撤退した。
ところが、避難しない人がいた。家畜を放置できない畜産農家だ。半杭さんもそのうちの1人だった。ひとけがなくなった小高区で、いつも通り牛の世話を続けた。半杭さんは妻と2人暮らしだったが、妻は災害対策に掛かりきりで帰って来ない。1人で家と牛を守った。
事態は悪化の一途をたどる。2日後の14日午前11時1分、福島第1原発で3号機の建屋が爆発した。独立して一家を構えていた娘や息子から「まだ小高にいるの?」「早く逃げて」と、引っ切りなしに携帯電話のメールが入った。
畜産農家も次第に浮足立っていった。この日の夕方、仲間の酪農家が「もう限界だ。俺は牛を置いて避難する」と伝えに来た。半杭さんが住む「大富」という集落では、5軒の酪農家が「大富酪農研究会」を作っており、その仲間だった。