同研究会は1970年、米の減反政策をきっかけに結成した。機械の共同利用や共同作業を行い、先進的な酪農集団として県内外から注目を浴びてきた。5軒は急きょ、話し合いを持ち、「これ以上残っていては、我々の命にかかわる。避難するしかない」と全員で決めた。
「ただ、1週間ぐらいで帰ってくるつもりでした。それでも母牛は乳房炎にかかって廃用にせざるを得なくなるだろうと覚悟しました。私が所有していた40頭の中には、育成中の若牛が10頭いました。この10頭があれば、再起はできると腹を決めました」と半杭さんは話す。
物流が途絶え、食料まで枯渇
5軒の避難先は東京、福岡、仙台、県内でも100km以上離れた会津などとバラバラで、研究会はこの日を最後に実質的に解散状態に追い込まれた。40年以上にわたる活動はあっけなく終わらされた。
半杭さんは一度牛に餌をやってから、牛舎のシャッターを閉めて、家を出た。とりあえず市役所のある原町区に移動して夜を明かした。
次の朝、すなわち15日は、福島第1原発の2号機と4号機で爆発と火災が起きた。1号機と3号機に続き、全6基のうち計4基の暴走が止まらなくなったのだ。
政府は原発から20km圏への避難指示に加え、30km圏にも屋内退避の指示を出した。この屋内退避エリアに入った南相馬市役所は身動きが取れなくなった。市内では軒並み店が閉まり、物流も途絶えて食料まで枯渇した。市内に残った人は籠城しようにもできなくなっていった。
半杭さんは、市役所で缶詰になっていた妻を置いて逃げることにした。
牛舎から聞こえていた“悲鳴”
15日朝、重要な書類などを取りに一度自宅へ戻り、15歳の老犬を車に乗せて、70kmほど離れた福島市の息子宅へ向かった。牛舎には猫が20匹住み着いていたが、「自分で餌を見つけて生き延びるだろう」と置いていった。
17日には自衛隊の決死隊がヘリコプターで原発に放水したものの、効果はなかった。南相馬市役所は18日から、小高区以外の住民も対象に、新潟県や群馬県へ向けて避難のためのバスを走らせた。半杭さんはそうした報道を息子宅のテレビで見ていて、「避難は1週間では済まない」と焦った。
頭をよぎるのは牛のことばかりだ。「餌をやりに行きたい」と何度も思った。親類や知人からは、半杭さんの安否を確認する携帯電話がひっきりなしに入る。そうした時に必ず言われるのは「牛はどうした」という言葉だった。涙があふれて、答えられなかった。避難時に持ってきた酪農関係の雑誌を見ただけでも涙が出る。あまりに泣いてばかりだからと、雑誌は孫に取り上げられた。
後の話になるが、半杭さんの家の近くに行った人から「牛舎でものすごい鳴き声がしていた」と聞かされた。半杭さんにはそれが「鳴き声ではなく、悲鳴を上げていたのだ」と分かった。涙が止まらなかった。