半杭さん自身が自宅に立ち寄ったのは、避難から1カ月以上経った4月21日だ。避難指示区域が翌日から「警戒区域」とされ、バリケードが設けられて出入りが完全に遮断されるという日だった。
親類の結婚式があるので式服を取りに行ったのだが、牛舎には立ち寄らず、逃げるようにして福島市の息子宅へ戻った。「まだ牛の鳴き声がかすかに聞こえていました。でも、牛舎のシャッターを開けて中の様子を見る勇気はありませんでした」と、うめくように語る。
半杭さんは4月中に福島市から原町区へ帰り、妻と合流した。そして6月10日、初めて牛舎へ入った。市役所に頼まれ、大富酪農研究会のメンバー2人で、動物の保健所に当たる県家畜保健衛生所の幹部を案内したのだ。
ミイラ化した牛の死骸を豚が食べていた
まず、50頭ほど飼育していた隣家の牛舎へ入った。乳牛の牛舎には、首を挟んで固定する金具「スタンチョン」がある。「スタンチョンに首を挟まれたままミイラ化した牛の死骸がずらりと並んでいました。どこの豚舎から逃げてきたのか、その死骸を豚が食べていました」と半杭さんは話す。
よく見回すと、1頭の子牛が生きていた。避難の後で生まれたらしい。母牛の死骸の後ろにポツンと立っていた。母牛は他の牛より長く生きていたらしく、腐敗が遅れていた。「子牛におっぱいを飲ませようと、歯を食いしばって生きていたのか」と思うと、胸が苦しくなった。
次に半杭さんの牛舎へ回った。シャッターを開けると一面、真っ黒に見えた。暗かったのではない。視界がきかないほどハエが発生していたのだ。牛の死骸もウジ虫に埋もれんばかりだった。
「もう牛には見えませんでした。家族同然だったのに、涙も出ませんでした」
「どれだけひもじかったことか」
猫も20匹のうち2匹しか生きていなかった。牛舎の回りには、たくさんの小さな骨があった。ただ、牛は6頭が牛舎の外で生きていた。もがいているうちにスタンチョンがはずれたのかもしれない。他の牧場から逃げて来た黒毛の和牛も何頭か一緒にいた。
牛の死骸はその後、牧場の一角に穴を掘って埋めた。その埋却作業の後、がらんとした牛舎で目にしたのが、写真にして持ち歩いている柱だった。「牛の前歯は下にしかありません。上は歯ぐきだけです。なのに、あそこまでかじり取ったのだから、どれだけひもじかったことか」
変形した柱は1本だけではなかった。多くの柱がかじられて、中には半分ほどの細さになったものもあった。首の届く範囲を必死でかじった牛の命が、それぞれの柱に刻まれていた。
「避難する時、牛舎から牛を放せば、生き延びたのに」と批判する人がいる。だが、半杭さんにはできなかった。無人の家に入り込み、餌を探して荒らすのが分かっていたからだ。半杭さんは農家である前に、地域の一員として何代も生きてきた住民だ。周囲の理解あってこその酪農だった。