しかし、避難区域では誰が放したのか、多くの「放れ牛」や「放れ豚」が群を作った。野生化した家畜は、予想通り不在になった家のガラスを割るなどして侵入し、屋内を糞だらけにした。人や車に突進してくることもあった。
「怖い」「もう家に帰れる状態ではなくなった」という声が避難者から漏れた。餌にならないものを食べるなどして死ぬ牛もかなりいた。
罠を仕掛けて牛や豚を捕獲し、安楽死させる
そこで、半杭さんら大富酪農研究会のメンバーは、県家畜保健衛生所の獣医らと一緒に、防護服に身を包んで避難区域へ入り、「放れ牛」や「放れ豚」を捕まえた。避難区域では畜産農家と行政職員が捕獲の役割を担わされたのだ。
乳牛はおっとりしているので、ロープで捕まえられた。気性の荒い和牛はそうはいかない。突進してきて、防護服をボロボロにされた獣医もいた。大きな豚に直撃され、突き飛ばされた人もいる。
だが、「人が戻れる土地」にするには、何としても捕まえなければならなかった。罠を仕掛けて捕獲し、安楽死させて埋めた。こうして殺処分された牛は、餓死したのも含めると避難区域全体で3000頭をはるかに超える
ただし、半杭さんらが捕まえたうちの約100頭は、半杭さんと隣家の牧場の2カ所に囲いをして飼育した。複数の大学から市に、原発事故で被災した牛の研究をしたいという申し出があったからだ。このため大富酪農研究会を中心にして「家畜飼養管理組合」を作った。
飼育のための経費を大学が出したのは初期だけだった。このため翌年、家畜飼養管理組合を母体にして、NPOを結成し、餌代などを集めた。NPOの理事長には半杭さんが就任した。
「牛を見殺しにしてしまった」
そうして2年ほど経過すると、牛は研究で解剖されたり、体調を崩して死んだりして、約30頭にまで減った。何とか生き延びさせたお気に入りの牛が死んでしまい、再び喪失感を味わった仲間もいた。
避難指示区域内の家畜は持ち出しが禁止され、たとえ生かしておいても、家畜としての「用途」は果たせない。大学の研究者の中には「このまま飼って、被災牛のサンクチュアリ(自然保護区)にしよう」と提案する人もいたが、半杭さんらは断った。
牛は経済動物だ。ペットのように無目的に飼い続けることはできない。餌代もかかる。生活を再建しなければならないのに、ボランティアで飼い続けることはできなかった。しかも、小高区は避難指示区域でも放射能汚染が比較的少なかった地区が多い。除染が始まり、避難指示解除が話題になり始めていた。
半杭さんらは「私達が再スタートを切るためには、かわいそうではあっても、区切りをつけないといけない」と話し合った。残った牛は安楽死させて、被災牛の牧場を閉じた。