試合後には簡単なセレモニーが催された。花束贈呈のアナウンス。プレゼンターは誰だろう、こういう時なら親交の深いベテラン山中浩史あたりだろうか、と想像したが……。
「プレゼンターは、奥川恭伸選手です」
名前を呼ばれたのは、新人の背番号「11」だった。最速154km/hのゴールデンルーキー。一時代を代表する投手だった五十嵐へ、これからの時代を担うであろう奥川から。陽だまりのような笑顔を浮かべる19歳から、41歳は笑って花束を受け取った。
いつだったか、戸田での練習で、五十嵐が二軍調整中だった梅野雄吾とキャッチボールをしているのを見たことがある。梅野も150km/h台の球を持つセットアッパーだ。後日神宮のマウンドを受け継ぐことになる投手。23年間リリーフを続けた五十嵐に学ぶことは多かっただろう。
2年目の久保拓眞も自身のSNSで、五十嵐とキャッチボールをした際の球の強さに触れていた。五十嵐は2020年一軍登板はなかったけれども、そのぶん戸田で若手に多く接した。キャッチボールをした者も、しなかった者も、五十嵐の戸田での姿に、多くのものを感じたはずだ。
マウンドには胴上げの輪が出来た。
「俺重いよ!?」
尻込みするような声も、後輩たちに導かれ、五十嵐の体は3回、宙を舞った。終始笑顔の五十嵐は、ベンチと選手たちに、客席に、そして外野のスタンドの方にも頭を下げ、手を振った。予告のなかった最終登板、「知っていたらもっと近い席にしたのに」という観客もいただろうが、見える範囲内の誰一人、席を立って前に詰めかけることはなかった。自分の席を動くことなくスマホやカメラを構え、思いを込めて拍手を送っていた。
戸田最後の記憶を幸せな思い出に
2019年10月の浸水後、戸田球場にはファンが入れなくなっていた。球場施設が一部復旧し、選手が入れるようになった後も、ファンの立ち入り禁止措置は続いた。
大変な労力をかけた復旧作業の後、ようやく球場に立ち入れるようになったのは、2020年1月の新人合同自主トレの頃だ。ルーキーの奥川たちが練習する姿を、その頃だけは、近くで見ることが出来た。新設の外野スタンドが出来て客席が増え、それまで近づけなかった球場外のブルペンも、投球を近くで堪能できるようになっていたのだ。
2月の春季キャンプで選手たちがいなくなり、3月の教育リーグまでには全ての設備が復旧する予定だった。そこに襲ったコロナ禍で、戸田は再びファンの立ち入れない場所となる。4月の緊急事態宣言もあり、先の見えない「自主トレ期間」に逆戻りした選手たち。6月にようやく練習試合が解禁となり、「無観客」の試合が行われるようになった。
6月19日、NPBが開幕し、イースタン・リーグも始まった。戸田球場に「観客」が戻ってきたのは、7月28日のことだ。検温、マスク、消毒などの感染対策。時間を区切り、選手と接触しないように動線を分け、席の間隔を空ける。練習時間は立ち入り禁止。それでも、2019年10月からの1年を思えば、試合が見られるだけでも感謝の気持ちでいっぱいになる。
18年オフ、古巣に戻ってきてからの2年間、五十嵐亮太と一緒に過ごすことができ、戸田での最後の登板を見届け、拍手で送ることができた。それだけでも幸せだ。
ファンの胸中は様々だろう。渡米前の姿を知らない人も多い。けれども年齢を忘れるほどに全力で投げ、文字通りチームを支えた神宮での姿を、そしてこの日の圧巻のピッチングを、忘れることはないだろう。
爆発するようなスピードボール、気迫。チームメイトから慕われる言動。気さくにファンに話しかける姿。子供に向ける優しい笑顔。激しさと熱さはそのままに、投球にも人柄にも深みを増した「ロケットボーイ」。彼の本質は、野球が大好きで人が大好きだ。だからこそ、周囲にいつも人がいた。だからこそ、皆で見送れて良かった。
かつてリハビリで長く過ごしたこともある戸田は、五十嵐の記憶の中ではいい場所ではなかったかもしれないが、この日、戸田最後の記憶は、笑顔と拍手に満ちた幸せな思い出になってくれるだろう。
周囲のケヤキは色付き始めていた。
球場も、野球も、世間も、この先がどうなるのかは、まだ見えない。けれども水没し、泥に塗れ、コロナ禍が影を落とした激動の1年の終わりに、ヤクルト戸田球場は「五十嵐亮太」という鮮やかな色を焼き付けた。
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