「この景色が見たくてプロ野球を頑張ってきた」

 田中瑛斗投手は試合後のインタビューで千葉のスタンドを見上げながらそう言った。その景色は、ファンもきっと本人も、もっともっと早く見られるものだと思っていた。5年目までその瞬間が来ないなんて誰も思っていなかった。2022年の七夕の夜、その願いはやっと叶った。

プロ初勝利をあげた田中瑛斗

来年こそはと思った矢先の戦力外通告

 田中瑛斗投手は高校時代、全国大会に出たことがない。甲子園にもあと少しで手が届かなかった。それでもプロから注目され、ファイターズに2017年のドラフト3位で入団した。

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 大分県・柳ヶ浦高校野球部、当時の監督はプロで選手としてもコーチとしても経験のある定岡智秋さん。ドラフト当日は「自分よりも喜んでいたくらい」と田中投手が話す定岡監督の指導で高校時代は基礎の走り込みをとにかく続けていたという。

 中学校2年の頃にヤフオクドームで見たダルビッシュ有投手に魅了され、野手から投手に転向。ダルビッシュ投手のようなプロ野球選手になりたいと夢見た。ファイターズから指名された瞬間に一番先に思ったことは「ダルビッシュ投手がいたチームだ!」だったという。

 同期には高校時代から注目されていた清宮幸太郎選手もいて、入団会見は札幌の観光名所でもある大倉山シャンツェで行われた。上位指名、ここから華やかな田中瑛斗投手の野球人生が始まるとファンは期待した。

 1年目、ファームで10試合の登板に終わるものの、肉体改造に取り組み、2年目のキャンプでは体が大きくなっていて遠目では最初誰だかわからないくらいだった。ファームでローテーションを守り18試合登板、防御率は5.85、白星はなく11敗だった。

 その年の9月27日、1軍初登板を経験する。田中賢介選手の引退試合でスタンドにはファンが溢れていた。二番手として札幌ドームのマウンドへ。2回を投げて2失点、負け投手になってしまったけれど、ホームグラウンドの大きな歓声の中で堂々と投げる姿にファンもチームも来季への期待を高めた。でも実はこの時にはもう田中瑛斗投手の右肘は痛み始めていた。

 保存療法を選択したものの回復の兆しはなく、2020年、一昨年の7月にメスを入れた。リハビリを経て去年のキャンプ前には投球開始。秋のフェニックスでも投げていたので来年こそはと思った矢先のシーズン後の戦力外通告だった。育成契約となり、背番号は46から146へ。46はすぐに新人の畔柳亨丞投手に渡された。支配下を再び掴み取ったとしても、もう同じ番号に戻ることはない。厳しい世界。

 私はHBCラジオでファイターズの応援番組「ファイターズDEナイト!!」を担当している。毎年、戦力外のリリースを番組で伝えるのは心が苦しい。チームの編成には限りがあるのだから、新しく入ってくる人がいれば出ていかなきゃならない人もいるのは理解している、でも寂しさが募る。その中でも田中瑛斗投手に対するこの通達に私は悔しくてならなかった。

 術後の回復をもう少し待ってくれないだろうか。調子が上がってくれば、手術前のパフォーマンスはもちろんそれ以上を期待できるに違いない。彼は高校から本格的に投手になった選手。まだまだ伸びしろがあるはずなのだ。何としても再び支配下へと願った。公平な立場を心掛けながらも強い気持ちの入った放送になったことを自分でも覚えている。