復帰初戦、ボールが顔面を直撃した近藤健介にヒヤリ
かなり、ひやっとした。6月28日にベルーナドームで行われた西武戦でのことだ。日本ハムにはようやく、近藤健介外野手が戻ってきた。1回2死二塁、西武・外崎の打球はその近藤が守る左翼へ飛んだ。あわやスタンドへという大きなフライにジャンピングキャッチを試みた近藤は、フェンスに激突し落下すると、グラウンドにうずくまってしまった。スロー再生を見るまで、何があったか分からなかった。一度はグラブに当たった打球がこぼれ、顔面を直撃していたのだ。
しばしの中断ののち、近藤はプレーを続行した。直後の打席では適時打を放ったのだから、問題はなかったのだろう。ただ、こちらとしては「93世代」はまた揃わないのか……と、一瞬覚悟してしまった。近藤の同学年、つまり「1993~94年生まれの世代」で、高卒で入団してきた選手には上沢直之投手、松本剛外野手がいる。今やチームを支える3人だが、1軍で揃って活躍した時期といえばあまりに短い。そしてこれは“育成の日本ハム”が停滞するようになった一つの要因ではないかとすら思うのだ。
2012年、日本ハムには4人の高卒ルーキーがやってきた。ドラフト2位の松本(帝京高)、今は巨人に移籍した3位の石川慎吾(東大阪大柏原高)、4位の近藤(横浜高)、6位の上沢(専大松戸高)だ。ちなみにこの年の1位は、存在しない。今は違うチームのユニホームを着て投げているみたいだけど、よく知らない。
この4人、11年目となる2022年も全員が現役で迎えた。プロ野球選手でいられる“平均寿命”は10年を下回る。これって、かなりすごいことではないだろうか。皆が皆、上位指名されたわけではない。当時のスカウト陣の、目利きのたまものだろう。
4人の中で、真っ先に羽ばたいたのは近藤だった。1年目のキャンプから1軍に呼ばれ、本職の捕手だけでなく内野も守れる起用さを買われた。この年巨人と戦った日本シリーズにも出場している。2番手は上沢だった。入団当初は投げる体力が全く足りなかったが、2軍で出会った加藤武治コーチの温かくも厳しい励ましの効果もあってかめきめき実力を伸ばし、3年目の2014年には1軍の先発ローテーションに入り、8勝を挙げた。石川も3年目になると、左キラーとして1軍に呼ばれるようになっていた。
どうしても1軍に揃わない同期入団の4人…遅咲きの松本はもがいた
一方、松本はもがき続けていた。1年目から実戦機会を与えるのが、日本ハムの育成スタイルだ。1年目の2012年、2軍で正遊撃手として起用され打率.225。28個のエラーはリーグワーストだった。そこからの成長を期待された2年目は、わずか57試合の出場に終わる。ユニホームよりも、Tシャツ短パン姿で鎌ケ谷スタジアムに「昼ごはん」を食べに来ている姿のほうが印象にあるくらいだ。とにかく細かい怪我が多かった。チャンスにさえ、なかなかたどり着けなかった。
この頃だったか、「僕、来年ダメならクビですかね……」と言っていたのを覚えている。マジメなのだ。金子誠が山梨で行っていた自主トレに同行し、アドバイスされたというスローイング練習を屋内練習場でずっと、黙々とこなしていた。2014年にはオリックス移籍が決まった小谷野に弟子入りし、12月はずっと練習を共にしていた。聞いたことをノートに書き留め、自分の糧にしようとしていた。努力は人一倍していたのだ。小学生のころから、リトルリーグで大活躍していた世代の有名人。運に恵まれず、このまま埋もれてしまうのかとも思った。
2015年、開幕早々に2軍の外野手が足りなくなり、右翼守備についたのが1つの転機になった。外野手としての出番が増え、8月末まで2軍で3割を大きく超える打率を残した。鎌ケ谷の球場から寮へ向かう坂道で「首位打者行けそうだね。頑張って」と声をかけたのはいつだったか。気が付けば9月は打率.119という大ブレーキで最終的に4位の.285。こちらも勝手に「声をかけなければ……」と自責の念に駆られたものだ。この年の2軍イースタン・リーグは3割打者がいない打低シーズン。ここでも大チャンスを、目前で逃した。
トレードで巨人へ去った石川は言っていた。「近ちゃん(近藤)も(松本)剛も、外野のライバルかもしれません。でも僕は3人で試合に出たいんです」。松本の努力がようやく日の目を見たのは、その石川がいなくなった2017年だった。1軍で左翼の定位置をつかみ、交流戦では広島・丸に次ぐ打率.396を残した。シーズン115試合に出場し.274。規定打席にも達した。ただこの時、松本が誰の代わりだったかといえば、とうに外野のレギュラーに定着していた近藤だ。開幕からしばらく、4割を超える打率を残していたものの6月に戦線離脱。椎間板ヘルニアと診断され。4か月近く戦列を離れた。2人がスタメンに並んだ試合数を数えてみたら、たった12試合にすぎない。