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広島経由でプロに羽ばたいた吉川光夫「本当に感謝しています」

 野球選手として広島に「育ててもらった」と言う男もいた。2012年のリーグ優勝に貢献した吉川光夫投手は福岡出身。進んだ広陵高で甲子園出場を叶えることはできなかった。3年夏は本命中の本命だったが、準決勝で制球を乱し敗れた。押し出しを連発する姿を見て、評価を下げたプロ球団もあると聞く。

 ところが、日本ハムの見方は違った。当時の高田繁GMと、山田正雄スカウトディレクターは、この準決勝を見ていなかったのだ。足を運んだのは、目の覚めるようなピッチングで完封劇を演じた別の試合。吉川が花開いた後に山田氏に聞くと、愉快そうに笑った。

「今は選手を隠すなんて無理な時代。ネットだ雑誌だって、全部出ちゃうんだから。でも選手の良い時を、自分だけが見ているというのはあり得るんだよ」

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 ドラフト1位で日本ハムに入団すると、1年目の2007年から1軍で投げた。6月20日には、苦い思いで高校野球を終えた旧・広島市民球場でも先発した。ところが4回途中まで、無失点のままで降板させられる。四球を連発する姿に、当時のヒルマン監督が「音を上げた」のだった。球場の取材エリアは、左翼スタンドの裏にあるバス乗り場の前だった。カープファンの騒ぎが聞こえてくる中で吉川は、「いつかここで勝てるようにしたい」とはっきり言った。

 その後、吉川には制球難のレッテルが重くのしかかった。特に2009年からの3年間は0勝11敗。2軍が主戦場となり、広島で投げる機会もなかった。リベンジの機会が訪れるのは、14勝を挙げてリーグMVPに輝いた翌年、2013年5月29日のことだ。球場は現在のマツダスタジアムに変わっていたが、7回1失点、10奪三振の快投。さらにプロ初安打まで放った。広陵高の恩師・中井哲之監督もスタンドを訪れていたという。

「監督は練習が終わってからしか球場に来られない。だからマウンドにずっといられてよかったです。こういうふうに育ててもらえたのは、本当に感謝しています」。巨人と西武を経て、今も独立リーグの栃木で兼任コーチとして投げ続ける。ベースにあるのは広島での日々だ。

 その後は有原航平投手(現ソフトバンク)が広陵高出身者の流れを継ぎ、今も上原健太投手が在籍する。さらに広島へのこだわりを守ってきた北広島市は、今やファイターズ“ど真ん中”の街となった。これから、どんな変化が起こるのだろうか。この原稿が掲載されるのは、実際にファイターズがカープとの3連戦を戦う最中になる。2つの土地をつないできた野球にも、思いをはせてみたい。

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