2023年。オリックス・バファローズがパ・リーグ3連覇の偉業を遂げたこの年は、彼らにとって声出し規制が解除され、はじめてファンの声援の中で掴んだ優勝でもあった。タイガースとの日本シリーズでの満員の光景にひとつの到達点を感じずにはいられないこの年末。神戸で結成されたガガガSPのボーカルにして、幼少期から応援歌を心底愛し、オリックス・バファローズをはじめ、各球団にも楽曲が使用されているコザック前田氏をホストに、彼と親交の深いオリックス・バファローズの応援歌のほとんどの作曲を手掛ける「大阪紅牛會」の初代会長にして、現応援統括プロデューサー和田益典氏による特別「応援」対談をお届けする。

「あの苦しかった時期、それで救われたところは正直ありますよ」

コザック前田 僕がバファローズの応援に本格的にハマるきっかけになったのが2005年。前回のコラムでも最後に書きましたが、あの時に声を掛けてくれたのが、「大阪紅牛會」の初代にして、現在は応援統括プロデューサーをやられている和田さんでした。

和田 そうやったね。あれは、合併した初年度の交流戦。神戸での広島戦やったよね。「ガガガの前田さんがいらっしゃってる」って聞いて、俺は以前からガガガのファンやったから喫煙所で前ちゃん見つけて、まあまあ大きな声で「前田さーん!」って声掛けたんが最初やね。あの時、しばかれると思ったとか言ってなかったっけ?(笑)

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コザック いやいや、応援団の人なんて僕らからすれば憧れの人たちですからね。そんなに簡単に近づけない人たちという感覚でしたよ。

大阪紅牛會・和田益典氏(左)と筆者

和田 あの時は、合併したばかりの年やね。俺は元々近鉄の応援団で、デモとかいろんなことやっても結果的に2チームだけ球団が無くなってしまって。辛くてね。

 そのオフに応援団関係者の人を介して仰木(彬)さんから「応援を続けてもらえないか」と頼まれたのもあり、翌2005年の正月2日にブルーウェーブ側の応援団と集まって、やるのか、やらへんのか。じゃあやるかって。ならばひとまず個人の感情は殺してね、まとめて行かなあかんと。それでもずーっと葛藤がありながらね。続けていたところでしたよ。

コザック 僕はその年の2月にパニック症になってしまってライブ活動を休止していたときですね。

和田 お互い、似たような境遇だったんよね……。

コザック あの時、和田さんが声をかけてくれたのが嬉しくて、翌週発売する『つなひき帝国』のCDを聴いてもらうために、次の日にまた球場に持って行ったんですよ。

和田 忙しい人やから次はいつ会えるんやろか~と思ってたらすぐに来た(笑)。

『つなひき帝国』聴いて、すぐにこれは応援歌として使えると。明るく痛快なメロディな上、前ちゃんとの出会いもあるから縁起いい時に使いたいと思い、『得点帝国』と名を変えて使わせてもらって。その後も、なんでかあの年はものすごい一緒にいたよね。あの苦しかった時期、それで救われたところは正直ありますよ。

コザック 僕も休養している半年間、リハビリはすべて“野球を見に行く”でしたから、とても大きかったですよ。おかげで8月にはライブに復帰できるようになりましたしね。そこからも交流は続いて、次の年には楽曲を3曲、後の早川選手、ラロッカ選手、あとは『讃丑歌』として使われることとなるメロディを作って持って行ったんです。

和田 前ちゃんが応援歌系の曲作るの得意なのはわかってましたし、頼んでたんですよ。そしたら年明けに、カセットテープもらってね。カチャ……「和田さんお久しぶりです」って(笑)。しょっちゅう会ってるのに。そこに『讃丑歌』の元となる曲があって、これは通常の個人応援歌ではなく違う形で仕上げたいなと1年ほど寝かした。元の曲を2人で試行錯誤してね……あれはガチの共作という感じやったね。

2008年イベント時のオフショット

コザック もともと『讃丑歌』は横浜とか広島が使いそうなメロディを遊びを入れて作ってみたんです。まさか使ってくれるとは思っていなかったぐらいのレベルだったんですよ。そこに和田さんがトランペットのキーに変えて、太鼓のリズムを入れたことによって全然違う曲に生まれ変わった。

和田 俺がメロディ足したり前後入れ替えたりして長さ増やして、詞のコンセプトは「チームを讃える歌」と決めてから、歌詞はウチの応援団が集まって、みんなで言葉を出し合ってね。当時の作詞作業は皆でやってたので、仕事終わった平日に集まって次の日仕事あるのに夜中の3時とかに「それええな」とか言い合ってね、誰がこのフレーズ出したとか今も憶えてるよ。