史上最大の海戦ともいわれ、事実上、日本軍連合艦隊の最後の組織的な戦いとなった「レイテ湾海戦」。1944年10月、苦心の末にレイテ島の隣、サマール島沖にたどり着いた栗田健男提督の主力艦隊の前にはハルゼーの主力艦隊はおらず、護衛空母群がいるだけだった。

 千載一遇の勝機を前に、ついに超戦艦・大和の主砲が火を噴く。明確な所在を告げることなく、北方で小沢提督の艦隊を追っていたハルゼーに向け、防御艦隊のキンケイド提督からは悲鳴のような救援要請が矢継ぎ早に送られた。そして開戦以来はじめて、ハワイの太平洋艦隊司令部のニミッツは艦隊指揮官に直接打電した――

「第34機動部隊はどこにいる? くりかえす、どこにいる?」

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 だが空母群を圧倒しつつも、際限のない追撃戦に陥っていた栗田提督は最終的にレイテ湾への突入をすることなく反転、避退を決断する。ハルゼーの誤算と栗田の失策。どちらかが違う決断を下していれば、その後の太平洋の戦いは違うものになったのだろうか? 

 米国の詳細な資料から、「アメリカ側から見た太平洋戦争」の全てを描き切った巨編ノンフィクション『太平洋の試練 レイテから終戦まで』(上下/イアン・トール著、村上和久訳/文藝春秋)より、一部を抜粋してお届けする。(全3回の2回目/続きを読む)

1942年頃撮影された栗田健男中将の公式ポートレート(写真=『太平洋の試練 レイテから終戦まで』より)

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(ハルゼーの旗艦・ニュージャージー通信長の)フォックスは解読されたテープを部下に手渡し、彼はそれをチューブに入れて、気送管に差しこんだ。気送管はふたたびしゅっという音とともにそれを3層上の甲板の司令部作戦室に送った。通信士官はそれを管から取りだすと、ニミッツからであるのを見て、ハルゼーに直接手渡した。彼はそれにさっと目を走らせ、彼が皮肉っぽい形式的な疑問文ととったものを読み上げた。

1944年7月18日、第五艦隊インディアナポリスの8インチ下の砲台に立つ(左から)チェスター・ニミッツ、アーネスト・キング、レイモンドブルース。3人の提督はスプルーアンスの司令官用食堂で夕食をとったが、サイパン島からやってきた蠅の大群に悩まされた(写真=『太平洋の試練 レイテから終戦まで』より)

「第34機動部隊はどこにいる、くりかえす、どこにいる、世界中が不思議に思っている?」

ハルゼーの激怒

 ハルゼーは怒りを爆発させた。さまざまな目撃証人によれば、彼は怒りで真っ赤になり、帽子を甲板に投げつけ、至急電を握りつぶし、それを投げ捨てて、足で踏みつぶした。いくつかの証言では、目に涙があふれ、すすり泣きに近い悲痛な泣き声を漏らしたという。「まるで顔を殴られたように言葉を失った」と彼はのちに書いている。彼はどなった。

「チェスター(ニミッツ)にこんなひどい通信文をわたしに送るどんな権利があるというんだ?」