おそらくことの顛末がわかることはないだろうが、これだけはあきらかだ。栗田は疲れ切っていた。3日前、ブルネイを発って以来、彼は一睡もしていなかった。旗艦愛宕はパラワン水道で彼が座乗中に撃沈され、55歳の海軍中将を海に浸からせ、命がけで泳がざるを得なくした。彼の麾下の各艦は、艦隊がかつて海上で遭遇したなかでもっともたえまない航空攻撃を受け、味方の航空掩護は皆無だった。

 栗田は、アメリカ人やジャーナリストたち、その他部外者たちに、自分の疲労が、急に向きを変えて逃げるという自分の決断になんらかの役割をはたしたと認めるのをいやがった。同僚たちとの内輪の会話では、彼はもっと率直だった。彼は古参の駆逐艦長、原為一に、「疲労困憊していたせいであの重大な失敗を犯した」と語った。幕僚も同じように疲れていたにちがいない。彼らも長い試練をわかちあい、決断に異議を唱えなかったからだ。

ハルゼーは誤りを認めなかった

 ハルゼーは、自分が1944年10月24日の夜、サン・ベルナルディノ海峡を無防備のままにしたことでまちがいを犯したと認めることなく墓場へ行った。自分の唯一のあやまちは、小沢の空母群がもう少しで射程圏内に入るというときに反転したことだ、と彼は聞く耳を持つ人間には誰にでもそう語った。

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1944年11月6日、カロリン諸島のウルシー環礁に停泊する第三艦隊の一部(写真=『太平洋の試練 レイテから終戦まで』より)

 カーニーと第三艦隊幕僚はこの公式見解に立ちつづけたが、事実上すべての空母群および機動部隊指揮官は自分たちの長が大失敗をしたと確信していたし、彼らのささやき声は後方のグアムやウルシー、マヌス、真珠湾、そしてワシントンでたちまち広まった。