(ようかいえい 文化人類学者。1964年、中国内モンゴル自治区オルドス生まれ。静岡大学人文社会科学部教授。北京第二外国語学院日本語学部卒業、総合研究大学院大学博士課程修了。『墓標なき草原』で司馬遼太郎賞を受賞。『チベットに舞う日本刀』『羊と長城』『アルジャイ石窟』など著書多数。)

 

 幼い頃の記憶に残っている風景といえば、家の南側の見渡す限りの大平原ですね。およそ80キロ先にある万里の長城も見えました。朝起きたら、モンゴル人は南の万里の長城に向かっておしっこをするんです。それと、トン、トン、トン……という鈴の音も忘れられない。それを聞くと、キャラバンが来たなと外に出るんです。我が家の前は、清朝の頃からキャラバンルート、北京と東トルキスタンを結ぶ道でした。遠くからラクダの隊列が現れて、我が家の井戸で水を飲み、野営するんです。彼らがくれるナツメヤシの実が、楽しみでしたね。

 文化人類学者の楊海英さんは、1964年、中国内モンゴル自治区のオルドス市ウーシン旗(旗は行政単位)に生まれた。父と母、祖母と4人家族だった。オルドスはチンギス・ハーンを祀る霊廟がある神聖な地。

 祖父は、チンギス・ハーンの末裔である貴族・西公ジョクトチルに仕え、界牌(ハーラ)(ガチ)(中国とモンゴルの国境の番人)を務めていました。父は人民解放軍に入隊しましたが、祖父が「封建的な旧社会の役人」だと出世もできずに除隊となり、旗政府のトラクターの運転手に。そこで草原開墾に反対して職場を追放され、家に帰って羊の放牧の仕事をしていました。母は中国共産党に心酔し、人民公社(農村の行政単位)の婦女隊長を務めるなど熱心に活動する人でしたが、父という反革命分子と結婚したことで幹部にはなれませんでした。

 両親がつけてくれた名前は、オーノス・チョクト。オーノスは草原に棲むガゼルを意味する部族名、チョクトは炎や力を意味する名前。1歳の頃、母がヤギの放牧から帰ってくると、裸のまま家から500メートルも離れた草原のなかにいた。飼い猫と一緒に冒険に出ていたようです。「イタチに食われた」と母は真っ青になったそうですが(笑)。

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 実家は、もとは曾祖父が建てた家を父が建て直しました。遊牧民といえば天幕(ゲル)で移動生活をしていると思われるでしょう。曾祖父は天幕を使った移動遊牧をしていましたが、清朝末期、回族(中国内のイスラム教徒の少数民族)や漢族が、モンゴル人の住む領域に入ってきて、放牧地が減り、家畜が減ってフェルトが作れなくなり、次第に固定建築を建てるようになった。つまり遊牧とは贅沢な生活で、貧乏になると定住するんです。

 私が生まれた家は、周囲をぐるりと土塀が囲み、中には「風の馬」、母屋、乳製品や肉、穀物、石炭などを保管する倉庫、納陰(野菜や肉を干す物干し)がありました。風の馬とは、軍神としてチンギス・ハーンを祀る武器と、赤と紺の布に馬と陀羅尼を刷ったもので、一家のシンボルとなる旗です。それと石臼が大小ひとつずつありました。見栄っ張りな祖父が遥か黄河の向こうから牛2頭で引いて持ち帰った特注品でした。大きな石臼「ブル」はロバやラバで引いて、キビやトウモロコシなどの脱穀に使い、小型の()き臼「テールメ」は、小麦を挽いて粉にする。脱穀、製粉には数時間かかるので、3キロ先のお隣さんから、数十キロ離れたご近所まで、臼を使いにやってきては、井戸端会議に花を咲かせていました。

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source : 週刊文春 2025年3月20日号