(むかいしゅうとく ミュージシャン。1973年生まれ、佐賀県出身。95年にNUMBER GIRL結成。2002年にMATSURI STUDIO開設。03年よりZAZEN BOYS本格始動。10年からはLEO今井とともにKIMONOSとして、またソロとして向井秀徳アコースティック&エレクトリックといった活動も行っている。)

プロフィールでは佐賀県出身という表記にしています。今からお話ししますが、色々と遍歴がありますから、「向井秀徳」が出てきたのは佐賀県という意味合いなんですね。
ロックバンドNUMBER GIRL、ZAZEN BOYSのフロントマンとして知られる向井秀徳さん。自身のスタジオMATSURI STUDIOを拠点に、唯一無二の音楽を鳴らし続けている。1973年、大阪府高槻市で三きょうだいの次男に生まれた。
生まれたのは大阪の高槻で、富田団地という公団住宅に、母、姉、そして母の姉妹と祖母と住んでいました。
佐賀出身の父親は製鉄会社勤務で、この頃は千葉の船橋に単身赴任していたんです。休みの時に遊びに行くと、その間借りしている家がすごく暗かったのを覚えています。長崎の佐世保出身の母親は団地から近い商店街で、有田焼を売るお店をやっていました。そのお店の手伝いとして、母の姉妹と祖母も一緒に住んでいたんです。8歳上の兄は中高一貫校の受験のために佐世保の親戚のところに行って勉強をしていて、合格後は学校の寮に入っていました。6歳上の姉はいたから、私以外は女性という環境でした。
部屋は5階建ての4階で、間取りとしては2DK、五畳間のダイニングキッチンと四畳半の部屋が繋がっていて、もう一部屋の六畳間があるという昭和のオーソドックスな公団住宅でした。四畳半の部屋は寝る時には布団を敷いて、みんなで雑魚寝するという形。家の中で言うと昭和の団地の色合いなんですけども、照度がそんなに高くない蛍光灯がなんか緑がかっている、そんなイメージを今でも覚えています。明るいってわけじゃなくて、ちょっと夕焼けにも近い暗さがありました。

一番最初の記憶というか、今でも覚えている最初のインパクトは、4歳ぐらいの時の「脳天カチ割り事件」です。団地近くの公園に置かれていた一輪のリアカーの荷台に友達が乗っていて、その荷台の取っ手の下に私は座っていたんだけど、友達が降りた瞬間にシーソーみたいにバランスが変わって、取っ手に付いていた突起みたいなものがすごい勢いで脳天に突き刺さったわけです。目から火花が散るみたいなすごい衝撃でした。痛くて泣き叫ぶということはなかったけど、びっくりして家に戻ろうとしたら、友達が真っ青になっていて、顔を拭ってみたら血だらけになっていた。それから家に戻って、病院に連れて行ってもらって治療してもらったはずです。
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source : 週刊文春 2025年7月3日号






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