女学校時代から日記をつけ続けているという鹿児島県南さつま市の吉峯睦子さん。日記帳を捲れば、戦火の記憶も、昨日のことのように、脳裏によみがえる。

私は大正15(1926)年、鹿児島市で米穀商を営む家の次女に生まれました。太平洋戦争が始まったのは、高等女学校の3年だった16歳の時です。英語と音楽の授業は防空訓練に変わり、5年生からは軍需工場に学徒動員されました。地元の航空工業で、飛行機部品の図面を書く仕事。卒業後も、女子挺身隊として同じ工場に勤めることになります。
戦時下の教育に染まっていたあの頃の私は、大和魂の勝利を疑わない“軍国少女”でした。もし男に生まれていたら、お国のためにと、迷わず特攻に行っていたかもしれません。
旧家だった生家の邸宅は街の中心部にあった。生活を一変させたのが、計8回に及んだ1945年の鹿児島市への空襲だ。特に6月17日の鹿児島大空襲では、鹿児島市街地の9割が焦土と化した。
夜11時頃でした。空襲警報より先に、B29の爆音が響きわたりました。玄関の先にある防空壕に逃げ込むと、家人はみな、自然と手を合わせて念仏を唱えています。母が浴衣姿のままだと気づき、私は母のモンペと防空頭巾を取りに自宅の方へ戻りました。すると、私の部屋のあたりが焼夷弾で燃えているんです。
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source : 週刊文春 2026年8月13日・20日号
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