同じところを回っている。随分時間をかけて進んできたのに、また同じ場所に出て来てしまった。まったく嫌になる。俯瞰して見るとそんな徒労感に苛まれるのだが、横から見ると実は螺旋階段のようになっていて、回りながら少しずつ上に上っている。そんなことを信じていたりする。そしていつも同じ問いに出会う。本質とは何か?

 能との出会いは朗読からだった。能の物語を現代語訳したものを能舞台で朗読し、その後に能の公演が始まる。お客様は、物語や台詞を理解した上で能を観ることが出来るという、能の世界の入口として素敵な企画に、語り手として呼んで頂いたのだ。企画者の(ほう)(しょう)流宗家・宝生和英(かずふさ)さんとは、まだお若くてサブカルがお好きというのもあって仲良くさせて頂いている。宗家は、伝統文化の担い手として様々なアプローチで能の魅力を国内外に発信されている。

 芝居を始めたばかりの頃、表現を志す者が初めに迷い込む道を歩いていた。表現とは何か? 私の表現とは? 世界には様々な表現があり、それらを沢山浴びることで表現者としての自我を揺らし、奥に残ったものを掴まえようとしていた。ノンジャンルで映画や舞台や絵画や音楽や小説や戯曲なんかを雑食していた。要は、飢えていて、暇だったのだ。

 そんな時期に読んだ本に能楽のことが書かれていた。イギリスの大演出家ピーター・ブルックさんの演劇論に突然現れた日本の能楽。その中で綴られる能楽へのリスペクト。これには意表をつかれた。現在も上演されている世界最古の演劇、能。そして、その後暫くして出会った、三島由紀夫さんが能を自身の解釈でリメイクした『近代能楽集』。能が気になり始めた。だが、日々の雑事に追われ本格的に能に触れることなく月日は経ってしまっていた。

 能に触れたことのある人はどれくらいいるのだろう。敷居の高い厳かなものなのでしょう? というイメージは自分にもあった。何より、「わからない」という理由が一番大きいのではないだろうか。この「わからない」に対するネガティヴなイメージが今の日本に蔓延している気がするのだ。「わからない」=「つまらない」に誤変換されている、そんな風潮。

 連綿と続いて来た文化の歴史の中に、「わからない」ものなど数多あっただろう。「わからないけど興味深い」や「わからないけど何か感じる」など、様々な「わからない」があったのではないだろうか。そして、それはある種の満足も生み出していたように思う。自分の好みではないけど、いいものなのかもしれない、というのもあったのではないだろうか。

 駆け出しの頃は「わからない」に触れるようにしていた。全身を真っ白に塗って踊る前衛舞踏や、モダンダンス、コンテンポラリーダンスなどの肉体表現は、理屈ではないエネルギーや世界観に魅了された。特に、前衛舞踏の大野一雄さんの公演はよく観に行った。席から立ち上がれなくなるほどの感動と衝撃を受けた。前衛舞踏の代表格といえば、土方(ひじかた)(たつみ)さんと大野さん。その頃には土方さんはもうお亡くなりになっていたからその舞踏を観ることは叶わなかったが、大野さんを観ることが出来たのは本当に良かった。理解出来る、出来ないなどは問題ではない、心の深くまで刺さるかどうかが問題なのだ、そんなことを思っていた。

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source : 週刊文春 2026年9月17日号